コラム



「Songs from a Eurasian Journey 1997」


文明とは人類にとってどんなものだろう?古代中国やエジプトやメソポタミアから考えてみても、地球の46億年の歴史の中でわずか5000年位にしかならない。その古代都市を観ると全て計画的に、ある法則に基いて造られていたことが分かる。それは根底に置かれた神秘的な数字などにおいて多くの共通点を持つ各々の古代文明の思想、例えば、今流行っている風水の基盤である五行と易の思想などの法則によるものだ。今は一般的には単なる開運法となっている風水や易は古代文明に遡ると音楽や建築の作り方から、あらゆる行事の日を決めることまでに関係していた。また音楽家は昔はシャーマンの様な存在で、王様のアドヴァイザー 、あるいは予言者として務めていたという例がいろいろな国に見られる。アイルランドのハーピストも宮廷ではこのような役割をはたしていたため、イギリスは侵略した時に多くのハーピストを処刑した。つい150年ぐらい前まで五行思想は日本や中国など東洋で、生活風習など様々なことに影響していた。(五行とは簡単に説明すると、宇宙のあらゆる要素を木火土金水という五元素に還元し、そのシンボライズされた元素どうしの関係を通して人間界を取り巻くあらゆる事象の関係性を考察する思想である。)地球の気候が今と違う頃、人々は大河を中心に集り、集落をつくり、そこから都市を生みだして文明を造り始めた。

当時、音楽や神話は単なる娯楽ではなくその文明を動かす車輪のように重要なものだった。東洋の五行や西洋の錬金術も、この当時メソポタミアから東西に広がって行った一つの思想が基にあるとも思う。音楽学者の黒沢隆朝は、中国はおそらく五音階理論を西のトルコ族やペルシャ族から5000年程前に学んでいたと書いている。この五音階の根本となる思想は五行の思想とつながっている。その頃の神話は宇宙を説明する役目を持ち、今で言えば物理学に近い役割を果たしていた。今は電子や原子(Atom)という言葉で説明する世界が、神の名前や、異次元の存在によって語られていたと思う。神話学者のジョーセフ・キャンベルはか「世界中のあらゆる神話は一つの源からきてている」という考えを特に主張している。そして神話は文明の発展とともに東西に広がったに違いない書いている。そして音楽においても楽器の発展や音楽理論が神話と同じように広がって行ったと僕は考えている。よく箏やブズーキやプサルテリーの様な楽器を民族楽器と呼んだり、そういった楽器の音楽を'民族の血を感じる'などと言う人がいるが、これらは今でいえばピアノやギターと同じように交流によって広がったもので、西にも東にもあったのだ。日本では音楽はまるでヨーロッパのバロック以降のクラシックが基礎みたいな教え方をしている様だが、それ以前に1000年以上も前からアジアやその先の中東との交流で生まれた音楽があった。そしてこのアルバムは、その音楽を探り出すことから始まっている。
奈良の東大寺の正倉院には、日本に隋や唐時代の中国から輸入された、ペルシャや中央アジアも含むあらゆるアジアの宮廷音楽の曲が書かれた譜面が残っている。その音楽の方法論を取り入れ、日本でさらに発展させたものが雅楽で、あらゆる日本音楽の音楽理論はこれに基づいている。これは世界中の宮廷音楽が昔からつながっていることの一つの証拠になっている。文明はメソポタミアから東に進みインドや中国と交流を持ち、西に進んで北アフリカやヨーロッパと交流を持った。
1986年に三人の学者が各々に中国と日本でこの譜面を復元したものを比較した本を手にいれた。非常に面白いものだった。それらすぐに僕は「ユーラシア大陸の音楽の古代からつながりを聞かせるようなアルバムに興味をもたないかな?」とピーター・ハミルを誘った。このアルバムに入っている『きみになれたら』(Wrong Footed)もこの頃に初めて彼に聞かせている。しかし何度かいろいろなレコード会社に企画書を書いたが、人事異動などが激しくこの企画書が通るには時間がかかった。その間に他のアルバムを幾つか出し、芝居やバレエ、映画やCMの音楽などを作っていた。いったんこの企画が決まりそうになっても制作会社内で人が変わったりすることがしょっちゅう起こる、なかなか思うようには進まない。とはいうものの、去年の夏バレエの公演で久し振りにイギリスに行った時、ピーター・ハミルに電話で「10年位前に話した企画が通りそうになっているんだけど、どうかな?」と尋ねてみた。その秋、ようやくこのプロジェクトは動き始めた。

曲解説:
『Arise My Love』の詩は、旧約聖書のソロモン作といわれている「ソング・オブ・ソングス」(雅歌)からイメージを得ている。
『詩人の恋』は中国の漢時代(約2000年前)の曲「王昭君」に基いている。この曲は奈良時代に日本に伝わり、今でも雅楽の曲目に入っているらしい。このヴァージョンは東大寺残る琵琶譜の曲を、僕の感じたリズムで作り直している。
『Floating Dream』 も『詩人の恋』と同じく唐時代の譜面に残っていた曲で、元は中央アジアから中国(中国では「弊契児」というタイトル)や日本に広がり、1500年位前に流行ったと思われる曲だ。このような曲の音程の並びは琵琶譜のタブラチャーから分かるが、リズムの取り方によって復元する人の捉え方がはっきりと出てくる。僕の場合は自分の今の感覚に最も合ったフィーリングで、ケルト・ハープで弾いてみたものを基本に、他の楽器をさらに上にダビングしている。この曲のレコーディングの後に来た、アイルランドのミュージシャンは、アイリッシュの歌い方でアイルランドの伝統音楽ではないメロディーを歌っている感じが面白いと言っていた。 歌詞は昔から中国や日本に伝わる話しを僕が書き直したもので"ある旅人が都行く途中に宿に泊り、特別な枕で眠ったところ、その後の都で成功した人生の全て一夜の夢とみてしまい、どんな栄華ももむなしいものだと知り帰って行く"という話に基いている。この話は能楽でも「邯鄲」という曲になっている。
4曲目の『Nava』から8曲目のペルシャ組曲は全てペルシャの伝統的な曲に基いている。『Nava』はペルシャの古典曲の一部である。『Layla』歌詞は中央アジアからアラブ世界までを含めて伝わる有名な愛の詩で、スーフィー教においては聖なる文学とされている。日本語でもペルシャ語からの素晴しい翻訳が東洋文庫から出ている。これらの曲にはピーター・ハミルがスーフィーのイメージ新たにで詩を書いていくれた。
『Wrong Footed』は僕が10年ぐらい前から琴を含んだアンサンブルで時々演奏していた『きみになれたら』に、全く新しい言葉をピーター・ハミルがつけて英語ヴァージョンにものだ。
『The Lamia』の"ラミア"とはギリシャ神話に出てくる3人の蛇女ことだ。この曲は元々ジェネシスが74年に作った『The Lamb Lies Down on Broadway』の1曲だったが、僕のアレンジのイメージはむしろ「黒いオルフェ」という映画から来ている。ブラジルのカエタノ・ヴェローゾの曲はよく僕のコンサートで取り上げていたのだが、ブラジルの曲ではないものにこのようなサンバ・アレンジをしたのは、その物語の神秘聖がより強調されると思ったからだ。レイルという一人のニューヨークのプエルトリコ人の青年が時間と空間のホールに飲まれて旅をするシュールリアルな話しの中に、三人の蛇女とピンクのプールで戯れるエピソードが出てくる。その描き方は千一夜に近いものがある。 『Tao』はペルシャのホマイユン旋法に基いているが全くのオリジナル曲で、バレエ曲としてもスコットランドで何度か演奏している。今回のヴァージョンはデイヴ・マタックス、ダニー・トンプソンと僕のトリオでドラムス、ベース、ブズーキのセッション・テイクで録音しているため即興性の強い演奏になっていると思う。 『幻燈詩』は元々AD1200年代のヨーロッパに残っている4つの音だけで作られている歌に基いている。この4つの音のテトラコードはとても日本的に聞える。時々箏の曲を思い出す。灰野敬二という僕の音楽の仲間は"日本が19世紀の西洋音楽を丸ごと学んだりしないで、もしも自然に西洋音楽と出会っていたら、やっていような音楽だと感じる"と言っていた。 『Ellipse』では日本の雅楽で残っている「越殿楽」とドイツの「カルミナ・ブラーナ」の曲を合流させて新しい曲を作っている。『Etenraku Jig 』ではさらに「越殿楽」のメロディーを"Jig"のリズムにしている。実はLaurence Picknという学者の研究書の中には「越殿楽」は元々中央アジアで輪になって踊っていた曲で、おそらく今演奏している速度より8倍速かったのではないかという説が書かれている。この曲はそれをイメージして作った。『Air』も奈良時代に伝わったという唐時代の譜面に「昔昔塩」というタイトルで残っている。
最後にはボーナス・トラックとして『きみになれたら』のオリジナル・ヴァージョンが入っている。
正倉院に残っているこれらの曲がこのような形で発表されるのは初めてだと思うが、僕はこのようなメロディーを持つ曲が昔から在ることを紹介したかった。今の雅楽や伝統的な方法論を外して、今の僕の感覚で演奏すると、このように響く。もちろんこれらの曲のアレンジはさらにもっと変えてしまうことも出来ると思う。SFの様に古代のテーマを未来社会に置き換えるような音作りをしても面白いし、デジ・ロックのようなアレンジもあればジャズのようなアレンジもあるだろう。今回は一セッション・テイクも多く、即興性が高いという僕にとってナチュラルなアプローチだった。もちろん、五行説、あるいは実際の雅楽の笙の音程の構成の仕方など理論的な面からアイディアを得て、発展させることもまた別のアプローチかもしれない。それぞれのやり方とその人の個性によって全く別のものが出来るだろう。今回『Floating Dream 』を歌ったイーファは録音中に"世界中の歌は基本的には共通のものを持っているかもしれないね"と言っていた。このアルバムを聞くことによって、遥か昔にユーラシア大陸を経て正倉院に伝わった音楽、そしてギリシャ時代とさらに時を隔てた中世時代に、中東からヨーロッパを経て伝わった音楽を再び発見して欲しい。

参加ミュージシャン紹介:
ピーター・ハミルの声はとてもこの企画にあっている。さらに彼の作る歌詞からも分かるように、ペルシャのスーフィー教を始めとして、あらゆる文明や歴史に興味を持ち研究もしていた。彼は70年代のソロ・ファースト・アルバム「フールズ・メート」や「イン・カメラ」、彼のバンド"ヴァンダー・グラフ・ジェネレーター"の活動が最も知られているが、最近は「Fireships」のようなクラシックに基本をおいたアルバムや、バレエ音楽、ライブ・インプロヴィゼーションなどいろいろな種類の音楽活動を続けている。今回のミックスを担当しているデビット・ロードとも、1986年の僕のソロ・アルバム『ノヴァ・カルミナ』の時に初めて一緒に仕事をした。彼の音の感覚には素晴しいものがあると昔から感じていた。デイブ・マタックスは自分のトリオの活動や"フェアポート・コンベンション"のドラマーとして以外にもスタジオ・ミュージシャンとしてポール・マッカートニーやジミー・ペイジ、XTCやジェソロ・タルなど、イギリスのあらゆるポップスの第一線のミュージシャンとの仕事をこなしている。彼も1986年に初めて仕事をした人である。
ダニー・トンプソンはスコットランドのハーピストであるサヴォーナ・スティーブンソンのアルバムでの演奏を聞いた時に感激して、今回のアルバムにぜひ参加してほしいと思った。彼も昔の"ペンタングルズ"のバンド活動を初め、80年代には"Ketama"という彼のバンドでワールド・ミュージックの演奏活動をおこなったり、リチャード・トンプソンやデビット・シルヴィアンのベーシストとしても活躍している。 イーファ・ニ・アールは今回のレコーディングのためにアイルランドから飛んで来てもらった。今でもゲール語を日常的に話しているドネゴール地方出身のシンガーで、彼女のファーストCDはモイア・ブレナンのプロデュースでJ.V.C.ビクターから発売している。 西村卓也は1982年から一緒にやっている。彼の弾き方はとても個性的で日本の中で最も素晴しいベーシストの一人だと思っている。彼は昔から僕の弾くフレーズにとても面白く合うものを自然に弾いてくれる。 三浦智津子とはの二年間僕と西村と共にトリオをやっている。あるペルシャ人が僕らのトリオが今回のアルバムに含まれていないペルシャの古典曲を弾いている演奏を聞いて、彼女のドラムスはペルシャ的なニュアンスを残しつつ新しい息を吹き込んでいることに、とても感激していた。このアルバムの『Nava』から始まるペルシャ曲に基づく作品を聞くと分かるように、伝統的なパーカッションのフレーズからジャズやロックのあらゆるスタイルを幅広くとても素晴しく叩いている。そのことはイギリスでもミックスの時に話題になった。 このアルバムの4曲目から7曲目のペルシャの曲に基く曲集と13と14曲目の演奏はブズーキ、ベースとドラムスのセッション・テイクで録音(他の楽器はオーヴァー・ダブ)しているためこの3人でしかできない音の絡みと即興的な面が伝わる思う。
エポと初めてあったのは、1984年に同じレコード会社だったことがきっかけだった。80年代の後半から彼女が作った音楽にはとても感動した『ファイヤー・アンド・スノウ』の日本語ヴァージョンは僕の最も好きなアルバムの1枚となった。今回の作詞をみても分かるとおり、彼女はいろいろな面を持ち才能がある。香港や中国でも彼女の曲は幾度となくカバーされているが、我々の生きている時代を代表している素晴しいアーティストだと思う。 今回は1曲目のコーラスでしか参加していない上野洋子も素晴しいミュージシャンである。僕のCD『ヘヴンリー・ガーデン・オーケストラ』での彼女のヴォーカルも好きだが、彼女の作曲やヴォーカルを担当しているZABADAKの『桜』は僕の好きなCDの1枚だ。