コラム



「個人的に話すと」


最初に習う楽器は、いつでも母国語のような存在であり続ける。いつでも帰ることのできる家のようだ。初めて行った学校はニューヨークで、英語だったから、英語では言いたいことがよく表現できる。僕の最初の楽器はギターだった。1968年に習い始めた。ある特定のスタイルでギターを演奏することが、僕の音楽すべての出発点となった。はじめクラシック・ギターを習ったが、ほんの基礎程度だった。

僕はオープンチューニングスタイル(オープンチューニングというのはある和音の響きに開放弦を調弦すること)に魅せられ取り組むようになっていった。もともとこのスタイルを知ったのはジョニ・ミッチェルやマーテイン・カーシー(スティーライ・スパンのギタリスト)を通じてだったが、中世の音楽やサイケデリックな即興に基づいてよりモーダルなスタイルへと変化していった。
僕はいつだってサイケデリックな音楽に興味があったのだが、というのも僕にとって、音楽とは常に自由を表現し、精神を解放(だから"サイケ")することにつながっていたからだった。中世の音楽に関心があるのは、僕が東欧や東洋の音楽と中世の音楽を結びつけていたからだった。
8才から15才までの間、母とイラン系アメリカ人である義父とともに過ごした。彼は平日は銀行に勤めているのだけれど、彼はペルシアの古典音楽をよく謡っていたし、ペルシアの古典を演奏する音楽家の友人がたくさんいた。彼の叔父はとても素晴らしい美声だったので、イランのシャーが彼が鴬のように大きな鳥小屋をつくったほどだった。60年代の後半から70年代前半、たくさんロックバンドの演奏を観た。たいていロックのコンサートというのは、4ドルから5ドルだったし、一晩で3バンドは演奏していた(グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアープレーン、10CC、ジェネシス、イエスや、今ロックの古典と考えられているバンドのほとんどがそうだった)。 昼間、ふつうのパブリックスクールに通っていて、そこにはいろんな国籍の学生がいた。アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、中国系アメリカ人、イタリア系アメリカ人など、が通っていた。

こんな生活が中断したのは、僕が日本にいる父のところにいる間に、母がイギリスの劇団と突然姿を消してしまったからだった。僕には日本での生活になじむのはとてもつらいことだった。日本の学校に行ったこともないし、今あなたが読んでいる文章でさえ、訳されたものだ。だけど、こんな若い頃の生活がぼく音楽の背景にはある。

最近、80年代はじめにアルバムを出した頃書かれた僕についての記事を読み返していて、僕のこうしたバッグラウンドがまったく誤解されいていたということを知った。というのも僕の父がクラシックのピアニストであり作曲家だと知れわたっていたので、人は即座に僕が父から音楽を学んだが、違う道を選んだと思いこんでしまうからだ。実際は、ピアノやクラシックを学ぶことはなかったし、もし学んでいれば、喜んで僕の音楽に取り入れただろう。

2000年5月24日、僕の新しいアルバム""EartGuitar""が発売される。これまでのCD以上に、このアルバムでは、僕の音楽に様々に影響したことをまとめてみた。言ってしまえば、僕はこのアルバムを代表作だと思うし、しかもとても気に入っている。最初の歌は伝統的なボスニアの歌で、イギリスのロックミュージシャン、ピーター・ハミルが途中、朗読している。ラテン・アメリカの複雑なコードとリズムでつくった歌が2つ。アンビエント系のビートにシタール・ギターを演奏した13世紀のスペインの写本にある東欧的なスタイルの歌。伝統的な琵琶の音楽を途中にいれた、ハーディーガーディーとブズーキーで演奏したアメリカのカントリーソング。特別なオープンチューニング(CGDECXとCDGFGC)で演奏した歌が2つ。太田裕美が歌い僕が中国の琴(Zheng)を演奏した中国風の歌。ボサノヴァでやったケルト神話を歌った作品。ベリーダンスのためのもの。ギリシア、ペルシア、東洋の古代の旋法を使った音楽を用いた歌。でもすべて音楽はとても個人的に響くと同時にポップにも聞こえるはずだ。

僕はよく、「エスニック」という用語が嫌いだと説明してきた。「エスニック」という言葉は非西洋音楽をあらわすのによく用いられたし、フォークという言葉は非クラシック音楽をあたかも劣ったものであるかのようにクラシック音楽から選別するのに使われている。今日、日本では、この言葉を、あたかもエスニック料理のスパイスのように使っている。日本の外では、特にヨーロッパやアメリカでは、日本の音楽はエスニックのようにみられている。インテリは浮世絵の画家、たとえば北斎を素晴らしい画家と評し、日本人はアメリカナイズされ、伝統的な文化を失っているという。彼らインテリの日本のイメージは未だに、ヨーロッパ人、アメリ人が当時持ち帰った後期江戸時代の絵や物語のイメージなのだ。しかし人はステレオタイプ化されたお互いのイメージで生活するものだ。

僕は常にナショナリズムというのは洗脳の一形式にすぎないと感じてきた。近代国家というのは19世紀に出来上がったにすぎない。人はそれぞれの町、それぞれの種族あるいは宗教と帰属するのだと以前は感じていた。人はこうした概念を他者をスケープゴートのように告発するために使ってきたのだ。僕は日本人は僕を異なる存在として視ていたと感じていたし、だから僕はずいぶん客観的でいられた。日本で育ったのではないから、今日の文化に根ざしていないかもしれないが、僕は少なくとも歴史的に 遡り、文化というものがそれぞれの違いからどのように学んできたのかを指摘することはできる。ペルシア、ギリシア中国の西にいたトルコの種族からの影響が奈良時代(6世紀)、日本に届いていたのか。いろんな国の人たちといっしょに学ぶ環境に育ったから、僕は似たような環境をいつも探している。
このアルバムの言葉は世界のいろんな場所のさまざまな物語や神話に基づいている。
たとえば:The Holy Man and Sinner Within"

聖者と内なる罪人

昔ある聖者がいました
彼は丘のうえに住み
木から天使を彫っていました
それはこの世で最も神聖なもの
森のなかで時は永遠のように過ぎ
甘く平和に流れていった
これは天国にちがいない

ある日彼は狂った
もう、抑えることはできない
扉が広く開く
彼の内に隠れていた、
大勢の友がとびだす
あまりにも抑えていたため
暗闇の悪魔が生まれた
怒りと肉欲のかたまり
彼は全てのコントロールを失った

昔ある平和な村がありました
旅人たちは完璧な世界をそこに見ました
しかし、村人の心の中には
怒りが奥深く眠っていた
そして今、理由をあたえられた
隣人に対する怒りの理由を
政治それとも宗教?
それはいいわけにすぎない

民族なんて
ほんとうにあるのだろうか
ただ共通の敵をつくり
戦うためのいいわけか
隣人と隣人
男と女
年寄りと生まれたばかりの者
人類の位置を知ると
自分も低く感じないか?