現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「一人の人の中に存在する様々なキャラクター」


人の中にはその人の表面に見えている人の姿と子供の時の自分、青春時代の時の自分という風に何人も重なっている。
時々、ニューヨーク時代の自分の姿だった人を思い出すような事が起きてくると自分の中から大きくうつの状態になってゆくのに気が付く。どうしてそうなのかは分からない。
おそらくもう一人の別の自分が自分の体内の中に入っていて、その中から出られなくなったのを悲しんでいるのかもしれない。
人から過去の写真を見せられると、もし自分がそのままの状態で大人になっていたら、どうだっただろうと感覚から逃られなくなる。周りの人が何故そういった写真を見せるのかは分かっている。それはその人にとって、楽しい子供の時の思い出だったからだ。そしてその写真を見て笑いたいからだ。しかし、反応が違うと見るとその人はきっと忘れたに違いないと言う風に思ってしまう。勿論、人はそれぞれ昔の事を考える時に全く同じ思い出を持っているという事はありえない。一緒に育ってきた場合のみ共通の記憶が残ってゆく。それでも、一人の方が別の部分を覚えているという事が多い。

ある僕の知っている女性歌手はこのような話を僕にした事がある。彼女の両親は子供の頃離婚した。母親と一緒に彼女と一人の妹と一人の弟が暮らし始めた。そして、彼女が長女だったので、下の2人の兄弟たちの面倒を親代わりに見ていた。それから数年経って十代の頃に父親とどこかで彼女は一人で会う事になった。会った時は特に大きな感情もださず、いつもどおりの力強いキャラクターを演じていた。しかし、帰りの電車に乗って、分かれた後に突然涙が出て止まらなくなった。そして彼女は気が付いた。自分は表面的には大きくなって、みんなを面倒見ている人になっているが、自分の中にはまだ子供の頃の自分がそのままいるんだと気が付いた。そして、表面にいる自分とはまた別に、内面にいる子供のままの自分にも語り続ける事にした。

僕にはそれ以外に文化、言語と社会の影響によって起こる色々な問題を状況的に考えられずにはいられなくなった。
最近の脳の研究では異なる言葉は脳の異なる場所から考えられているらしい。これを読んでいるみなさんも右脳と左脳は別々の役割を分担しているという話しを聞いた事あるかもしれない。左脳は体の右を支配していて、言語や計算をする脳だと言われている。右脳は感覚脳だと言われていて、音楽や美術を理解しているのは右脳だと言われている。
異なる言葉は脳の異なる場所から考えられているという事は、英語と日本語を話せる場合、脳の中で英語で考えている自分と日本語で考えている自分は脳の中の別々の所にあるという事だ。脳のある部分を怪我すると2つの言葉を話せる人が片方しか話せなくなるというケースもあるらしい。
英語で話している自分と日本語で話している自分は性格が少し違うのは前から自分で気が付いている。英語でしか表現出来ない物がある。日本語でしか表現出来ない物がある。もう一つには英語で話している自分を見ている周りの人々がいる。この人たちが鏡となって見る『私』は日本語で話している自分とは別のキャラクターを見ている。夢の中でも英語で見る夢と日本語で見る夢がある。英語で話している人は夢でも英語で話している。そして日本語で話している人は夢でも日本語で話している。

時々、一つの言葉で考えてからもう一つの言葉に翻訳して見ると普段だとその言葉では考えられなかったような面白い表現になる事がある。

双子の兄弟がそれぞれ違う性格になってゆくのは自分たちの間で、一人は真面目タイプでもう一人が笑わせるタイプ、と言う風にお互いでキァラクターを分けると言う話しを『柔らかな遺伝子』という本で読んだ事がある。それぞれが生まれた後に別々に育つと、一緒に育ったケースに比べてお互いが似ていたという例がいくつもある。

脳の研究にはまだこれから分かってゆく事が多いだろう。フランシス・クリックという科学者がいる。彼とジェイムス・ワトソンという科学者がチームでDNAの形と働き方を最初に発見したと言われている。そしてノーベル賞を取っている。
フランシス・クリックはDNAの次に脳の研究を始めていた。人に意識があるというのはどういう事か?神話や宗教で言う魂とは科学的にはどういう事か?夢とはどういう物か?
意識を変えるとはどういう事か?テーマとしては今までは宗教や神秘思想家(スピリチュアリスト)が研究するトピックが多かった。しかし、彼は神秘主義に興味を持っていたのではなく、それを科学的解明したかった。
彼は60年代にファショナブルになる前からLSDやハッシシやマリファナをたくさんやっていた。そして意識とはどういう物か書き続けていた。
彼は意識とはオーケストラの指揮者のような物だと書いた。