現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「家族の崩壊Ⅱ」


75年の春、僕の家は非常に居づらい場所になっていた。母があるイギリスのダンス・カンパニーの一人のメンバーと付き合うようになった。毎晩夜中中LSDを取りながらパーティーをおこなっていた。何人も家に来ていた。ある日、何人もセックスを同時にしている事に気が付いた。周りに子供がいても関係なかった。LSDは普段見ている世界が別の世界に見えたり、普通だったら気づかない事が分かったりもするが、場合によってはそれとは逆に自分の世界だけに入り込んでいて周りで行われている事が全く見えなくなって行く事もある。僕自身はまだその頃14歳だった。特に年齢としても大きい訳ではなく、身体もまだ子供である。今のアメリカの法律ではこのような事は虐待として訴えられる事でもある。そしてそういう日々が続くようになった。
中学生というのはまだ宿題やレポートをたくさん出さなければいけない。しかし、それを書く場所さえもないのだ。学校の友達のビルを誘って図書館に勉強しに行ったりした。

突然ダムがこわれたかのように家庭生活が消えて行った。今となってそれを分析しようとすると、おそらくそれは長年主婦らしい生活を僕と僕の義父としていたから、そのストレスが突然ダムが崩壊するようにメチャクチャな形で起きたのかもしれない。学校の先生たちは僕の様子が心配になって、僕を精神科に連れて行った。何かが起きている。でもそれが何かは分からなかった。学校の先生から精神科に行くようにと言われたと母に言ったら、『ゴー・クレージー』しか言わなかった。学校に来る事も連絡する事もなかった。自分の世界だけに入り込んでいた。全てがメチャクチャになれと言っているような事だった。
また、母がこのように突然爆発するタイプの人だとそれまでは思わなかった。其れまではもっと子供だったから気がつかなかったのかもしれない。僕が30代になって、結婚した頃に再びこの時のような説明の付かない感情の爆発を見た。もしかして、母の結婚していた3人の旦那さんたちはこのような事をもっと見ていたのかもしれない。僕にとってそれは分からない事だ。

母にこの頃、『何故女の子と付き合わないのか?ゲイか?』とよく聞かれた。
しかし、中学生というのはまだそういう付き合い方をしている訳ではない。高校になるとその状況は変ったと思うが。クラスでもガールフレンドやボーイフレンドがこの年齢からいたのは二組のカップルだけだった。それも早いと見られ、その内の一人の少女は影で娼婦というあだ名が付いていた。彼女には父親がいなく、クラスの男の子に近寄りながら、『お小遣いちょうだい』、と言ったりしていた。

この頃、イギリスの映画監督、ケン・ラッセルがザ・フーのロック・オペラ、『トミー』の映画版を作って発表した。『トミー』は母と父が離婚した頃に最初2枚組みのレコードで発表された作品で僕は小学2年生の時からよく聴いていた。この映画を母と母が付き合いだしていたボーイフレンドと一緒に見に行った。母のボーイフレンドはいつもお金がない人だったので、母がいつも払っていた。その映画は第二次世界大戦争の時に父の行方が分からなくなり、死んだと発表されたトミーという少年の話だった。彼の母はサマー・キャンプをやっているバーニーという男の人と親しくなってゆく。ある夜、トミーの母とバーニーがベットでセックスを始める時にトミーの父親が帰ってしまう。びっくりしたバーニーはトミーの父を殺してしまう。トミーは自分の父が殺される所を見てしまい、ショックを受けてしまう。トミーの母とバーニーはこれを誰にも話してはならない、何も見なかったのよ、何も聴こえなかったのよ、何もしゃべれないのよとトミーに吹き込んでしまう。そしてトミーはその通りに何を言っても、しゃべらなくなり、目もショック状態のままで何も見えなくなっている。この映画を見に行った後、母は僕を見て『トミーみたいだ』と言った。

マリアン・フェースフルの自伝でローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズの最後の日々を見ると、当時のストーンズのメンバーたちはそれぞれこのように自分の世界に行ってしまっていて、内面的に苦しみ出し始めたブライアン・ジョーンズの事も見えなくなっていた事が描かれている。他の人の事が見えなくなると人間そのものが冷たくなって行く。

僕自身は感情的になる人は信用出来ないと思っている。しかし、本当は内心では自分も感情的であるのは分かっている。それを理論でおいて押さえているのだ。

おかげで中学の友達ともっと親しくなった。夜、学校の後で同級性の家に行って、マリファナを吸って、音楽を聴くのが普通になって来ていた。高校もどうなってゆくかなと楽しみにしていた。

しかし、本当はもうどうしょうもない所まで来ていたのかもしれない。ここまで来てからは元の生活に戻れる事は出来なかっただろう。もしも、そのままニューヨークにいたとしたら、どうなっていただろう?立ち直る事が出来たか?あるいはジャンキーになっていたか?
僕が当時書いていた短編小説の一つは大人になってから分かった事だが、少し三島由紀夫の小説『午後の曳航』に似ていた。僕が当時持っていた全ての持ち物――レコード・コレクション、音楽テープ、作った曲、自分で撮っていた色々なバンドのライブ写真と共に消えてしまったが、多分『午後の曳航』のように中学生が人を捕まえて拷問して殺す話だったと思う。

数年後立てば、ニューヨークにはアート・リンゼイやイクエ・モリがやっていたDNA、それからジョン・ゾーンやビル・ラズウェルが出てくるシーンが始まる所だった。
6月の半ばにジェファーソン・スターシップというジェファーソン・エアプレーンの残りのメンバーたちがやり始めたバンドが久し振りにセントラル・パークで無料のライブをやる事になった。昼間にやるライブだったので僕は学校を休んで一人でカメラを持って見に行った。一番前の方で見ていた。エアプレーン時代からのメンバー、グレース・スリック、ポール・カントナー、マーティー・バリンなどが中心に立っていた。昔の僕が子供の頃から知っていた『Somebody to Love』,『White Rabbit』などのエアプレーン時代の曲を『Ride the Tiger』 や『Caroline』などの新しい曲の合間に次から次へとやっていた。ヴォイリンはホット・ツナで最初見たパパ・ジョン・クリーチがやっていた。すごく楽しいライヴだった。同時のニューヨークのFMラジオ局WNEWにも生中継で放送されていた。WNEWのDJがジェファーソン・スターシップがステージに出る前に大勢の高校生、中学生、や大学生を見てこう言った:『まあ、何てたくさんの人たちなのでしょう。今日、学校の先生たちは生徒はみんなどこに行ったのだろうと探しているのじゃないの?』
ライブが終わった後、持っていたカメラの三脚がステージの前の所に立ててあった
ブロックの向こう側に落ちてしまった。隣りにいた女の子がスタッフに、彼の三脚が落ちたから彼に渡して上げてと何度かどなって、スタッフが僕に持ってきてくれた。
僕は夜になると友達のビルに電話をした。

それから数日後、日本に出発する日が来た。もうすでに春に母のボーイフレンドだったダンサーはイギリスに帰ってしまっていた。僕は母に何をこの後にするのか聞いた。その日の予定ぐらいしか言わなかった。そして僕はケネディー空港から東京にたった。
数日後母はイギリスに一人で行った。9月頃に僕の義父から手紙があった。僕がニューヨークに帰ったら、母もイギリスから帰るのではないかという内容だった。僕は義母のカレンに相談した。『もうそのような状態だったら。日本にいた方がいいんじゃない』という返事をしていた。

80年代にこのダンス・カンパニーの照明をやっているあるイギリス人と出会ったら、彼はこう言っていた:
『ああ、君のお母さんはまだこのカンパニーが貧しくてやっていけなかった頃に彼らの面倒を見ていたのだよ。』
イギリスでは僕の義父の銀行口座に入っていたお金を使って、カンパニーの人たちを食べさせたりしていたらしい。その内、義父は彼女が銀行からお金を下ろせないように止めてしまった。それから数ヶ月立って、カンパニーではまだ19歳だった少年と一緒に日本に戻って来た。

しかし僕にとっての本当の問題はまだこれからだった。