現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「詩や小説を書き始め出した中学生。1974-1975」


中学生になると短編小説を書いて、それをみんなの前で朗読するのが楽しみになっていた。自分を聴いてくれるお客さんがいて、毎回それを楽しみに聴いてくれたり、コメントしてくれる事がそのはげみになっていた。アメリカの小説家、カート・ヴォネガット、は最初は自分が物語りを語ってあげたい一人の人間を想像しながら書いていた事が小説家になるようになったとどこで言っている。その人の反応を想像しながら書くのは楽しい。僕の場合は最初は中学のクラスの人たちだった。
自分の話す言葉にその場で人々が反応してくれると次にはどのような事をテーマにして見ようかとなどと思うようになる。
僕は中学生の頃、ジェネシスというイギリスのロック・バンドがよくアメリカをツアーしていて、何度も見に行った。彼らの当時にシンガー、ピーター・ゲイブリエルは曲を演奏する前によくその曲の物語を簡単にマイムを入れて語っていた。そのやり方も面白かった。ザ・シネマ・ショーの前ではブラック・ユーモアがまじったロミオとジュリエットの物語。Musical Boxの前では幼稚園で女の子が男の子とゲームをしている時にボールを打つ大きな棒で男の子を殺してしまって、その男の子が老人になった幽霊として戻ってくる話を語る。物語を語る時も歌う時も手を上手に使いながら、言葉を動きで表現していた。例えば、棚の上に時計があったと歌う時は手でまず棚の上まっすぐな線を表わすようにさっと左から右に五本の指をまっすぐにしたまま横に伸ばしてから、イギリスの古い時計のおもりが右から左に動くように手を伸ばしたままスウィングさせる。いつも真剣の勝負のように集中しながらやっていた。
このバンドは当時、いつも真面目に物語を音楽と動きで見せるようなショーをやっていた。みんなを躍らせたり歌わせるようなバンドではなかった。このバンドのドラマーのフィル・コリンズはしょっちゅうその日の演奏をテープで取り、夜には反省会を開いていたと言う噂だ。
74年の終わり頃にデビッドという役者と知り合いになった。当時彼はリンゼイという男の役者の恋人だった。彼はバイセクシュアルだった。僕自身はゲイには興味を持った事はない。彼の朗読のしかたは独特に感じた。彼はアイルランド人だった。彼のオスカー・ワイルドの読み方にはそれまで僕が知らなかった世界を感じた。今から思えば、シェークスピアのようなイギリスの古風の読み方だったような気がするが、その当時の僕のニューヨークの生活にはそう日常的にあるものではなかった。自分も物語を朗読する時にそのような声の出し方をためして見るようになった。学校では東洋人なのにイギリス人みたいな話し方をするという評判が広がった。アメリカはその200年前までイギリスの一部だったからイギリス風の話し方をするとアメリカ人には古風に聴こえる。本当は彼自身もポーズを作っていたのかもしれない。彼は本当はアイルランドの南から来た人で、黒い髪の毛をしたよく見るタイプのゲ-ル人(ケルト系のアイルランドやスコットランド人)の顔をしていた。僕の母違いの弟もどこかゲ-ル人らしい顔をしている。
彼は芸術家に憧れていた。何度か2人でコンサートや映画を見に行った。彼は実験映画や実験音楽に興味を持っていた。一緒にニューヨークの近代美術館でやっていた実験映画祭に行った。ジョン・ケージが音楽を付けて、マーセル・デュシャンプが出ている映画がやっていた。ルイ・ブニエルとサルヴァドール・ダリが作った『アンデルシャンの犬』も初めてこの時に見た。僕自身は父と一緒に何度かジョン・ケージに会った事は会ったが、意識的これがジョン・ケージの音楽として聴いた事はこの頃までなかった。
1975年の3月1日にニュー・ジャージーまで2人で行って、ストローブスというバンドのライブをキァピタル・シァターで見た。ストローブスはちょうど『ゴースト』というアルバムを出した頃でもっともプログレ色が強い時期だった。『ゴースト』と『ヒーロー・アンド・ヘロイン』2つのアルバムの曲を中心にやっていた。ストローブスは最初フォーク・グループとしてスタートして、一時期サンディー・デニーというシンガーも参加していたバンドだった。しかし、リック・ウエイクマンというクラシックの早引きを弾くキーボード・プレーヤーを見つけた事によって、まず注目をあびて、その後リック・ウエイクマンがストローブスをやめてイエスというより有名なプログレシヴ・ロック・バンドに入った事によって、もっと注目をあびた。つまりイエスのファンがイエスにリック・ウエイクマンが入る前にどんなバンドにいたかを多くのイエスのファンが興味を持ったからだ。ストローブスもそれに答えて、よりプレグレシヴな音に彼らのサウンドを変えていた。キァピタル・シァターで見た時はキーボードに元ルネッサンスのジョン・ホーキンズというキーボード・プレーヤーがいた。照明が下から光っている中で『ヒーロー・アンド・ヘロイン』のイントロのテーマを弾くジョン・ホーキンズはマッド・サイエンティストのようだった。この曲にはファンキーなシンセサイザーで弾いたベース・ラインが中心になっていて、当時黒人のラジオ番組でもよくかかるようになっていた。今、聴いても、70年代のブラック・ミュージックに『シャフト』や『スパーフライ』が流行った同じ時代の感覚がある。しかし、ストローブスの音楽の特長はこのような曲よりもフォーク・ロックの延長だった。中心はデイヴ・カズンズのギターとヴォーカルで『アウト・イン・ザ・コールド』と『ラオンド・アンド・ラオンド』のメドレーが特に良かった。
この時のストローブスのセットリストはこんな感じだった:
Out in the Cold/Round and Round
Autumn
Lemon Pie
Remembering - You and I
Just Love
New World
The Life Auction/Drum Solo/Hero and Heroine/Round and Round [reprise]
この日前座はボニー・ブラムレットというシンガーだった。元はデラニー・アンド・ボニーというバンドを夫婦でやっていたが、分かれてソロをやっていた。デラニー・アンド・ボニーはクリームをやめたエリック・クラプトンがメンバーになったという事で突然有名になったバンドだった。彼女はソウルやブルースを中心に歌っていたが、アリーサ・フランクリン、あるいはジャニス・ジョプリンのような迫力はなかった。
休憩の間はローレル・アンド・ハーディーの昔の白黒の短いコメディーを見せていた。

80年代の初め頃、デビッドは僕の事を昔恋人だったと誰かにいったらしいが、そのような事は本当は全くなかった。ただ彼が言っているだけだった。
デビッドは70年代の終わり頃からイタリアのB級映画に出るようになっていた。一度も売れた事がないB級映画の監督でJoe D‘Amatoと人がいる。Joe D‘Amatoは『エマヌエル婦人、人食い人種と出会う』などの映画を作った。『エマヌエル婦人、人食い人種と出会う』はLaura Gesmaという『エマヌエル婦人2』という当時売れていたエロチック映画のパート2に出ていたインドネシア人の女優が出るという約束でそのタイトルが付いた。目的はエマヌエル婦人のファンとホラーのファンをいっぺんに集めようという事だった。エマヌエル婦人の役をやっているLaura Gesmaがセックス・シーンに入ると後ろから人食い人種が出てきて、ホラー映画に変るというアイディアだった。あまりにもこっけいなアイディアで結果はどちらの映画ファンもこなかった。しかし、Joe D‘Amatoはあきらめずに次から次とそのような映画を作り続けた。『The Night of the Living Dead』という映画が流行れば、彼は『Sexy Nights of the Living Dead』という映画を作ってしまう。Joe D‘Amatoの映画は赤字ばかりだったらしい。デビッドが出ていたのは『カリギュラ2』の主役だった。
こういう低予算で流行ったものコピーをしようという映画では良い役者でも本当にそうなのかが分からなくなる。

1986年に僕がイギリスに行った前に彼の弟リチャードは日本に来ていた。MIDIの社長とも会っていて、仕事の話をしていた。そこで僕が『NOVA CARMINA』を録音しに行った時に助けになった。