現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「イギリスにレコーディングに行く 1986年」


イギリスにレコーディングに行く 1986年

1986年の7月に僕はMIDIレコードから200万円の制作費をトラヴェラーズ・チェックであずかった。イギリスで一人でアルバムを完成して持って帰ると言った。

僕の母は1976年頃からマーチンというイギリス人と暮らしていた。1978年からはニューヨークで暮らしていた。マーチンは19歳の時にイギリスでリンゼイ・ケンプのダンス・カンパニーに入っていた人だった。ニューヨークではまず指圧で生活を立ててから、心理学を勉強して、カウンセラーになった。この頃、まだ指圧で生活をしている時期だった。彼の父と母はイギリスに住んでいた。父は元イギリス軍にいた人で地中海の元イギリス領のマルタ島で母と知り合って結婚していた。イギリスに戻ってからは銀行に勤めていた。僕はイギリスに行った事はなかったが、彼の家族の家に泊めてもらってからレコーディング・スタジオとミュージシアンを探そうと思った。実は僕はイギリスではまだ誰もよく知らなかった。しかし、何かの勘でうまく行くアルバムが出来るに違いないと思った。

レコード会社も僕を信じて専務が経理の人に指示をして、僕に200万円を渡した。

まずはニューヨークに飛んで一週間過ごした。そこでイギリス行き往復の切符をマーチンと僕の二人分を制作費の中から買った。クエート航空の切符だった。イスラム教の国の航空会社だからアルコール類は機内で出さない。僕も酒を飲まないからちょうどよかった。僕はマーチンの家族も会った事もなかった。彼に来てもらわないとそこに泊まるのも難しかった。

ニューヨークでの一週間は楽しかった。ずうっと天気がよかった。
7月15日にニューヨークに着くとまずジョン・ゾーンに電話をした。ジョン・ゾーンはその一年前に東京で知り合ったニューヨークの作曲家・ミュージシャンだ。彼は1985年頃からしょっちゅう日本に来るようになって、高円寺でアパートを借りて、日本の色々なミュージシアンとライブをやっていた。僕もキーボード・スペシァルという雑誌で彼のインタヴィユをして、記事を書いた事をあった。21世紀になると彼のCDレーベルTZADIKから3枚のCDを立て続けに出してくれた。これらのCDが僕の音楽をアメリカとヨーロッパに紹介するきっかけになった。
彼の家に電話するとあやしいホラー映画の音楽のような音楽がまず鳴った。
僕は聴いていた。すると突然止まって『名前とメッセージを言いなさい』と言う声が真面目そうな声で聴こえてきた。
僕はピーという留守電の前に鳴る音を待った。
しばらくしても『名前とメッセージを言いなさい』と言う声が再び繰り返された。
『これって録音メッセージじゃないのですか?』
『これは録音メッセージではありません。』
『僕AYUOです。』
『おお、Ayuoかあー。ニューヨークに来たのか。』
『今回はロンドンに行く途中だから、数日間しかいないけどね。この最近はどうしている?』
『今週はノンサッチ・レーベルのためにスピレーンという曲を録音するところだ。ラジオ・シティー・ミュージック・ホールのスタジオで録音するから遊びにこないか?18日が次の録音する日だ。』
『うん。行きたい。』
『それとは別に会おうよ。明日の昼はどうだ。』
『空いているよ。』
『それじゃおいしいタイ料理屋があるから食いに行かないか?』
16日の昼は彼とサックス・プレイヤーで作曲家のネッド・ローゼンバーグ、日本人の作曲家でパフォーマンス・アーティスト鳥飼潮の3人でタイ料理の昼食を食べた。チャイナタウンの側にあった。ジョンはロンドンに住んでいる何人かのアヴァンギャルド・ミュージシアンの電話番号を僕にくれた。後でみんなでチャイナタウンにショッピングに行った。
その日の夜はルー・リードのライブをリッツという大きなクラブで見た。ベースのフェルナンド・サンダースがプロデュースした『Mistrial』が出たすぐ後の時期だった。この時期、ルー・リードはロック・スターになっていた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドや『ベルリン』の時のような毒は影にまわって、80年代のよりポップな音作りをしていた。『Mistrial』はベースのフェルナンド。サウンダースが打ち込みとプロデュースを担当した。ルー・リードのもっとも80年代っぽいサウンドの仕上がりになっていた。ヴェルヴェット時代の『We’re Gonna Have a Real Good Time Together』からショーは始まった。2時間の間、ヴェルヴェットの頃の曲から『Mistrial』の曲を元気のいいロックン・ロールとして演奏していた。お客さんにはニュージャージーから渡って来た保守的なアメリカン・ホワイト・ボーイが多く目立った。ブルース・スプリングスティーンの『Born in the USA』を聴くのと同じ感覚でルー・リードを聴いていた。60年代後期や70年代初頭でルー・リードが当時の格好で歌い出したら、このお客さんたちはブーブー言ってビンをステージに投げつけたかもしれない。80年代半ばではスプリングスティーンみたいなロックン・ローラーとして見られていた。ルー・リードの演奏そのものはすごくよかった。
7月17日、僕は昼間、ロンドン行きの往復券を買いに行った。クエート航空で行く事になった。夜はミッチ・ライヴのメンバーで当時の立花ハジメのライヴで目立ったリード・ギターを弾いていた塚田ツグヒトとニューヨークに当時住んでいた粟津ケンと僕でOCS-NEWSといったニューヨークの日本人向けの新聞で座談会をやった。
7月18日はラジオ・シティー・ミュージック・ホールのスタジオにジョン・ゾーンのレコーディングを見に行った。スピレーンとはマイク・ハマーというニューヨークの探偵のキャラクターを作った小説家ミッキー・スピレーンの事だ。言葉はアート・リンゼイが書いて、その言葉をアート・リンゼイ、ロバート・クワイン(元ルー・リード・バンドのギタリスト)とアントン・フィアーの3人に朗読させていた。ジョンは最初インデックス・カードに自分がその曲でやりたい事を書いて、それを並べながらスタジオで録音する材料を考えていた。スタジオにはギターのビル・フリゼルやキーボードのウエーン・ホーヴィッツなどが演奏していた。
7月20日は僕の『サイレント・フィルム』のミキサーのデビッド・ベイカーとサックス・プレイヤーのスティーヴ・エルソンと会った。
7月21日はアート・リンゼイに会いに行った。彼はナナ・ヴァスコンセロスというブラジル人のパーカッション奏者のアパートに居候していた。DNAで彼がやっていた事やアンビシアス・ラヴァ-ズのこれからのプランなどについて色々な話を聞かせてくれた。
その日の夜は坂本龍一のライヴ・アルバムのミックスをパワー・ステーションに粟津ケンを誘って見に行った。パワー・ステーションはニューヨークで当時流行っていたレコーディング・スタジオで80年代の半ばになると日本のアーティストで一杯になっていた。レコーディング・ルームは田舎の家のように全て木で出来ていた。エレベーターやトイレにもマイクとスピーカーが置いてあって、ビル全体の反響をミックスに使えるように出来ていた。パーカッション奏者のデビッド・ヴァン・ティーゲムと話始めた。ソロ・アルバムを始めたばかりだが、見にこないかと言われた。
7月22日はデビッド・ヴァン・ティーゲムのソロ・アルバムのレコーディングを見に行った。彼は当時1千万もした高いシンセ・サンプラー、フェアライトをシークエンサーにつないで音を録音していた。坂本龍一のツアーで日本に呼ばれていた時、ある日本レストランで見つけた石の音が気に入っていて、その音をフェアライトでサンプリングしていて、『か、か、か、』と言う音を作っていた。その次には右手のVサインの谷のところを左手の中指で叩いた音をサンプリングして作った打楽器的な音を見せてくれた。キーボードの高い音を弾くと『さっ、さっ、さっ、』と言う音がして、低い音を弾くと『しゅー』と鳴っていた。80年代ではこういった実験に時間をけっこうかける人がいた。この頃1千万もした機材は21世紀になると無料のサンプラーでも出来るようになった。
7月22日の夜僕はロンドン行きの飛行機に乗った。


イギリスは一度も行った事がない場所だから自分はゼロの状態になれた。レコード会社から制作費はもらっているが、誰も僕の事は知らない。もちろん僕の親の高橋悠治の事も知らない。レコード会社の紹介もない。ただ自分一人の力だけで動いている。だから勘違いは自分で作らない限り、ない。

ロンドンに着いてからの最初の2週間は次から次へと色々なミュージシャンに会えた。ジョン・ゾーン、モーガン・フィッシャーなど色々な人からもらった電話番号を色々かけていった。ジョンも次から次と電話するが良いとアドヴァイスしてくれた。
二ナ・ハーゲンはロンドンに引っ越したばかりだった。スティーヴ・ベレスフォードはイーノのレーベルの作品で初めて聴いたミュージシアン。手作りの楽器で演奏したり、ポップスをプロデュースしたり、インプロヴィゼションをジョン・ゾーンなどともやっていた。女性のパンク・バンド、ザ・スリッツ、の彼の演奏やアレンジが特に僕の印象に残っている。彼とはロンドンのノッティング・ヒルズの近くであった。マイケル・ナイマンとも会いに行った。そしてそれぞれの人からスタジオやエンジニアの事も聞いた。
ロンドンのタワー・レコードは開いたばかりで僕のMIDIのソロ・アルバム『サイレント・フィルム』がもうすでにロックのコーナーに置いてあった。これはアメリカのタワー系由で輸入された物だった。僕はこの時にスティーライ・スパンのマディー・プライヤーとティム・ハートの昔のデュオ・アルバムを買った。
ロンドンの情報誌、Time Out,を見ていたら、AMMというインプロヴィゼションのバンドがロンドンのハイド・パーク内の画廊で演奏するスケジュールが書いてあった。AMMとは60年代後半にシド・バレット、ピンク・フロイドやソフト・マシーンと共にUFOクラブなどで出ていた昔ながらのアヴァン・ギャルド・インプロヴィゼションのバンドだ。シド・バレットはAMMのギターのキース・ロウから色々な手法を学んだという事もよく書かれていた。
画廊では図形楽譜の個展をやっていた。僕のギターの先生のウイリアム・へラーマンの書いた図形楽譜も飾ってあった。こんなに面白い図形楽譜を書いている人だとそれまで知らなかった。
彼らは前衛音楽のインプロヴィゼション・グループとして1960年代の中頃に始めたが、ピンク・フロイドと対バンでUFOクラブなどでプログレやサイケデリックのアルバム・コレクターの間で有名になっていた。ポポル・ヴーなど聴く人たちが聴いていた。最初、AMMが始まった頃はコーネリウス・カーデューという現代音楽の作曲家がかかわっていた。彼は最初はヴェルヴェットのジョン・ケール等共にニューヨークの実験音楽グループ、FLUXUSに影響受けた実験音楽をロンドンでやったり、ジョン・ケージやシュトックハウゼンの実験音楽に影響を受た音楽活動をしていた。環境音楽やアンビエント・ミュージックという言葉を作ったブライアン・イーノもカーデューの活動から色々学んでいた。しかし70年代に入ると“政治的”な音楽活動をするようになった。毛沢東思想に影響を受けて“毛沢東万歳”やカンボジアのポル・ポトを讃える曲を書くようになった。そして、1980年代の初め頃にロンドンの街角でバスを待っていると、車に轢かれて死んだ。
画廊で即興演奏でいくつかの曲をやっていた。パーカッションのエディー・プレヴィストの演奏は得に印象に残った。キース・ロウはスティールのものさしやワイヤーのコイルをギターの弦の間に挟んで金属的な鐘のような音を創っていた。
コンサートの後でAMMのメンバーたちに話しかけた。僕は1982年にカーデューの曲をいくつか集めたコンサートもやっていた。その事は彼らも聴いて知っているみたいだった。日本から来ていて、アルバムをイギリスで録音する場所を探している事も言った。彼らに僕の父の高橋悠治の事は知っているかもしれないと思って、父の事も言った。ギターの先生がウイリアム・ハミルトンだった事も言った。
しばらく話してから、エディー・プレヴィストが昔の実験音楽の仲間がバースで今レコーディング・スタジオをやっていて、そこでAMMも一枚録音したと言った。これはデビット・ロードの事だった。デビット・ロードの録音したアルバムはすでにいくつも持っていた。ピーター・ゲイブリエルの『4』、最初のWOMADフェスティヴァルの時に作られたコンピレーション盤、ヴァージニア・アストレイ、ピーター・ハミル等のデビット・ロードがプロデュースしたアルバムはイギリスに行く前に何度も聴いていた。そこで是非彼の連絡先を知りたいと言った。エディー・プレヴィストはその次の日に僕の泊まっているマーチンの両親の家に電話をして、教えてくれた。
そして、すぐにその電話をかけてみるとデビッド・ロードはちょうどその週にロンドンでラテン・クオーターというバンドのリズム・トラックを取りに行くと教えてくれた。そこでまず会う約束をした。北ロンドンのスタジオはジェリー・ボイスというスティーライ・スパンなどアルバムをプロデュースしていたエンジニアの持っているスタジオだった。そこに僕の音のサンプルを持って行って、是非アルバムを一枚一緒に作りたいが予算はあまりない話をした。彼は興味を持ってくれた。
次の週にフェアポート・コンヴェンションのライヴをイギリスのパブ、ハーフ・ムーンで見に行った。ドラマーのデイヴ・マタックスの演奏には感動した。しかし、全体のコンサートの雰囲気は僕にちょっと違和感があった。僕は『Liege and Lief』の頃のフェアポート・コンヴェンションのサウンドは好きだった。中学生の頃に見た時期も好きだった。しかし、その日の夜に見たフェアポートは酔っ払いのバンドだった。もちろんいい曲もやっているし、演奏もうまい。サンディー・デニーの書いた『One More Chance』のこの日の演奏には素晴らしい緊張感があった。74年の見た時のギタリスト、ジェリー・ドナヒューもゲストに出ていた。僕はイギリスに行く時にカセットにサンディー・デニーの頃のフェアポートやフェアポートのメンバーをバックに作られたサンディー・デニーのソロ・アルバムを録音してよく聴いていた。そこには無限の空のような広がりがあった。サンディー・デニーの曲『Who knows where the time goes』というタイトルその物にもその時間が止まったような感覚は入っている。その感覚はマリファナやハシシと共通した感覚だ。それは音楽からも聴こえていた。“自由”を感じさせる感覚だった。こういった感覚は1980年代のフェアポートにもうなかった。中東の音楽でもそうだが、ハシシからアルコールに移るとなにか音楽の感じが変わる。
リチャード・ホートンというカメラマンのスタジオを尋ねに行った。彼のスタジオに行く途中、本とレコードを売っているお店で中世時代のヨーロッパの楽器、プサルトリーを買った。この楽器はイギリスで録音したアルバムでは多いに活躍した。
それを持ってリチャード・ホートンのスタジオに着いた。彼の兄は僕が中学生の時に会った役者のデビッドだった。彼は色々なミュージシャンの写真を撮っていたので常にミュージシャンが彼のところに来ていた。彼のところでトーマス・ドルビーと会った。そして夜、彼のスタジオでマリファナを吸ってから、Rip, Rig and Panicと言うバンドでヴィオラを弾いていたメンバーやハンガリー人のデザイナーなどと一緒にヴェトナム料理に連れて行ってくれて、彼が全員をおごった。彼にアルバムのジャケットの写真を頼んだ。彼はMIDIの専務をすでに日本で会っていた。一緒にMIDIに電話すると、アルバムのプロモーション用の写真も頼まれる事になった。彼はこの頃、スージー・アンド・ザバンシーズの写真やトーマス・ドルビーのヴィデオなども撮影していた。

ロンドンの譜面屋さんショット社の地下にアーリー・ミュージックというイギリスのヨークショア州で中世ヨーロッパの楽器を復元してキットにしたり、出来上がった物を売っているお店があった。そこで以前から興味を持っていた中世ハープのキットを買った。しかし、のこぎりなどのツールがないと作れないキットだった。デビッド・ロードに中世ハープの』キットを買ったが、誰か工作が上手で作ってくれる人がいないかと聞いたところ、ヴァイオリ二ストのステュアート・ゴードンを紹介してくれた。彼は昔、インクレディブル・ストリング。バンドのメンバーで後にザ・コーギスのメンバーとなり、その頃はピーター・ハミルとよく演奏をしていた。

その次の週にはロイヤル・フェスティヴァル・ホールでスティーライ・スパンとルネッサンスのコンサートを見に行った。彼らのライヴは凄く良かった。ちょうど『Back in Line』というアルバムを出したばかりの時だった。このアルバムの曲と昔から聴きたかった曲を次から次へと演奏していた。この頃の『One Misty Moisty Morning』は『Back in Line』のCDのボーナス・トラックとしても入っているが、かなりいい時期だった。
それに比べて、先に出たルネッサンスは疲れている感じだった。僕は1970年代の初め頃にニューヨークのアカデミー・オヴ・ミュージックで見た時はタイトに演奏するプログレ・バンドだった。女性ヴォーカリスト、アニー・ハスラムは高い声を器用に出して、音楽はクラシックをフォーク・ロックに混ぜて、プログレらしい組曲にした物が多かった。彼らは19世紀後半のロシアのクラシックやドビュッシーのピアノ曲からフレーズを盗んで曲に混ぜていた。スペクタクル映画の音楽みたいな盛り上がりを作る事が多かった。時代が変るとレコードでは1980年代の初め頃まで質の良いポップスを出していた。しかし、デュラン・デュランがポップスで売れている時代には売れなかった。格好も時代の流行りからずれていた。70年代のような格好は80年代のグラマラスなファションが流行っている時にはダサく見えた。80年代の初め頃、僕の友達の河原君に『内容はいいよ』と言ってその頃のルネッサンスを聴かせたら、彼は『このジャケットの格好じゃ今売れないよ』と言っていた。
この日のルネッサンスはアニー・ハスラムとほとんどの曲を作曲したマイケル・ダンフォードの2人とベースとピアノのゲストだった。ピアノの人はニューヨークのロング・アイランドから来た人だった。昔の曲を次々と弾いていたが、アニー・ハスラムは声がちゃんと出なくなっていた。音程を外す事も多かった。ゲストの2人はレコードをコピーしたような演奏をしていた。
この後でデビッド・ロードにスティーライ・スパンのマディー・プライヤーをレコーディングに誘いたいという話をした。彼と最初あったスタジオのオウナー、ジェリー・ボイスも、もちろんマディー・プライヤーを知っている人は何人か知っていた。彼はその内の一人に聞いたら、アニー・ハスラムも誘うのはどうかと聞いてきた。アニー・ハスラムはこれからのキァリアをどうしたら良いのか悩んでいるみたいだと言っていた。僕はコンサートに行っていなければ、喜んで頼んだかもしれない。中学生の頃からアルバムは聴いていた。しかし、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールの演奏を聴いて、断ってしまった。今だったらおそらく断っていないと思う。今ではどういう演奏をしたかが気になる。
それから、デビット・ロードのスタジオで色々な手伝いをしているヴァイオリ二ストのステュアート・ゴードンを通してフェアポートのデイヴ・マタックスにドラムを頼んだ。ステュアートはインクレディブル・ストリング。バンドの『Earthbound』という70年代のアルバムでデイヴ・マタックスと共演していた。80年代からはずうっとピーター・ハミルのサポート・メンバーとしてやりながら、バースやブリストルの色々なミュージシャンのアルバムに参加している。Massive Attackのアルバムでも彼の演奏は聴ける。

自分が中学生の頃から聴いていてミュージシャンが僕のアルバムに次々と参加出来る事になった。これには心の中ではびっくりしていた。誰も特に知らないイギリスにトラヴェラース・チェックを持ってやって来て、どうしてこんなに素晴らしいミュージシアンたちとすぐに会えてレコーディングできるようになったのだろう?
ジェファーソン・エアプレーンのポール・カントナーは1966年にはまるで自分の望みが全てかなってしまうように感じた時があったと語っている。僕にとってこの1986年のレコーディングの時はそのような感じだった。

デビッド・ロードとの仕事でまず僕がびっくりしたのは音楽を制作して行く時にまるでテレパシーのようなコミューニケーションが出来た事だった。日本で録音したそれまでの作品にはそのような事は全くありえなかった。むしろ、僕はコミューニケーションが取れない人として扱われていた。しかし、デビッド・ロードとでは自分が口に出す前に彼がその次のステップを初めていた。録音は信じられないほど早いスピードで進んでいった。それから、それぞれにミュージシアンから新しいことを学ぶ事が出来た。
日本で録音をした『メモリー・シアター』、『カルミナ』などの時ではいつも指示を出さないと人は動かなかった。それも中々言っている事がお互い伝わりにくく、僕はよく色々なバンドのアルバムをスタジオに持って来ながら、このようなエコーの音とか言って例を出そうとしていた。本当はスタジオ経験が浅かった。人の作品が録音される例をあまり見ていないままソロ・アルバムを作れるようになったから、欲しい音の響き方をちゃんと説明する事はまだ出来なかった。だがこの時の僕の噂は色々東京で広まっていた。



Ayuo 1986