現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「イギリス 1986年 デビッド・ロードとの初めてのレコーディング」


イギリス 1986年 デビッド・ロードとの初めてのレコーディング

デビッド・ロードのクレサント・スタジオでのレコーディングとミックスは10日で終わった。最後の3日はミックスだったからレコーディングは7日間だった。
僕はレコーディングの前の日にバースのスタジオに着くと元スタックリッジのジェームス・ワレンがソロのCDのレコーディングをやっていた。スタックリッジのアンディー・デイヴィスも手伝いに来ていた。僕はヴィデオを見てから寝ると言って、スタジオの部屋から“Texas Chainsaw Massacre”というホラー映画を借りて、スタジオの後ろにあるベッドの部屋に寝に行った。しかし、見ているとだんだん怖くなってきた。そして怖くなったと言ってスタジオに戻ったら、ジェームスもアンディーも笑っていた。

まず最初の2日はドラムマシーンにパターンを打ち込んで、それに合わせて、ギター、ベースとキーボードのパッド(白玉のコード)を入れていった。この2日で『Across the Seasons』,『With Eyes Closed』 『Sounds of You』『End of Earth』のドラム以外の全ての僕のパートを録音した。3日目は中世の鉄弦楽器のプサルテリーのパートを全て録音をした。それから、毎日、日代わりでミュージシアンたちが来てくれた。
デイヴ・マッタクスのドラムのパートは4曲全て一日で録音出来た。彼はドイツのツアーね出かける直前で前夜からバースに泊まりに来た。ドラムのミックスのサウンドから全体の編曲まで、色々なアドヴァイスをしてくれた。彼のドラムのサウンドは彼自身がミックスして、ミキサーのコンピューターに残して行った。
マディー・プライアーは朝の6時にイギリスの東部を車で出て、バースに到着後、夜の7時くらいまで、全く食事も摂らずに頑張ってくれた。声に影響が出るからOKテイクが出るまで食べないと言っていた。一曲目はカール・オルフのカルミナ・ブラーナからの曲を編曲したものだった。もう一つは中世時代のカルミナ・ブラーナからの曲だった。これは1200年頃のドイツのメロディーだった。マディー・プライアーはスティーライ・スパンのヒットしたレコードでもラテン語で歌っていたし、ルネッサンス時代の4パートのハーモニーの曲をスティーライ・スパンで歌って、それをイギリスでヒットさせたりしていたものだから、譜面は読めるものだと思っていた。しかし、本当は全てを覚えてやっていた。譜面は読めない人だった。彼女はスティーライのヴィオリンのピーター・ナイトに頼んで、イギリスの東側にある彼女の実家に来てもらって、僕が送った譜面をピーターに何度も弾いてもらいながら覚えたのだった。中世時代のカルミナ・ブラーナからの曲は僕がイギリスについてからいくつかの中世音楽のレコードを聴いて、譜面におこした物だった。それらをマディーは見事に歌いこなしていた。マディーの演奏は今聴いても素晴らしいと思う。努力した事も伝わって来る。
ミュージシアンたちの真面目さは感動的だった。日本でミュージシアンを呼んでもこのように真面目に仕事をする人たちは少ないかもしれない。
デビッド・ロードは仕事に入り込むと止まらなくなる人だった。マディー・プライアーが帰って、僕がカルミナ・ブラーナの曲『Veris Letis Facies』のキーボード・パッドのダビングが終わっても、一人で気が付かない程の細かいヴォリュームやダイナミックスの変化などをミキサーのコンピューターに打ち込んだりし始めた。そして止まらなくなった。夜中の2時頃になって、僕はもう起きてられないからと言ったら、一人でもうしばらくやりたいからと彼に言われた。そして止まらなくなった。夜中の2時頃になって、僕はもう起きてられないからと言ったら、一人でもうしばらくやりたいからと彼に言われた。そして、次の日もまた早くから元気よく始めていた。
週末にはリチャードが写真を取りに来てくれた。グラストンベリーのところまで車で行って写真を取ったり、ウェルスの協会で写真を取った。ウェルスの協会での写真がジャケットの写真となった。その後で一緒にサマーセットでやっているロック・フェスティヴァルに行った。そこではデビッド・ロードがちょうどプロデュース最中だったラテン・クオーターも出ていたし、スティーライ・スパンも出ていた。いい天気で草の上にねっころがって音楽を聴いた。いいバンドはたくさん出ていたが、お客さんはあまりいなかった。実はスティーライのヴィオリンのピーター・ナイトをレコーディングに誘ったのだった。スティーライの演奏が終わった後、マディーにあいさつをして、リチャードの車でピーターと彼のアメリカ人のガールフレンドを連れてバースに戻った。最後のバンドIt Bitesと言うバンドだったが、リチャードは仕事で彼らを取ったばかりで彼らはあまり好きではなかったから見なかった。
ピーター・ナイトには2曲頼んだ。一つは僕が書いた中世音楽風の曲ともう一つは最初日本の筝と歌のために書いた『Eye To Eye』という曲のインスト・ヴァージョンだった。ピーターは元もとはクラシックをロイヤル・アカデミー・オヴ・ミュージックで勉強していた。その間から彼はアイルランドのフィドルにどんどん興味を持っていった。そして、本屋さんで働きながらアイリッシュ・フィドルの曲を弾いている内にイギリスではすでに有名になっていたフォーク・シンガー、マーチン・カーシーに誘われてスティーライ・スパンに参加した。これは1970年の事だった。僕が会った時は自分はイギリス人なのにアイルランドの音楽にはまりすぎたのではないかと思っていた。もちろんアイルランドのフィドルの曲はスティーライの重要なレパートリーになっていた。これは彼が個人的にアイデンティティーの問題を考えていた。アイルランドでは素晴らしいフィドル・プレイヤーがたくさんいた。彼はスティーライ・スパンで有名になって、アメリカやオーストラリアなどツアーしたが、イギリス人なのにアイルランドの曲をたくさん弾いていた。彼の演奏も僕の二つの曲にピッタリ合っていた。
それから後は僕が録音したハープ・ソロの曲にラテン語の朗読を入れたいと思っている事だった。これがピーター・ハミルとの出会いになった。

David Lord, Ayuo 1986

Bath