現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「ピーター・ハミル」


ピーター・ハミル

僕が『Nova Carmina』を録音している時に一曲ラテン語の朗読を入れたいと思っていた曲があった。それはカルミナ・ブラーナの詩集に含まれて曲でバースという町の牧師になっていたブロイスのペーターが書いた詩だった。この曲はウェルズという町でとった水の音をバックに中世ハープのソロとラテン語の詩の朗読で出来ている。
その時にデビッドがそうだピーターがぴったりだと言って、ピーター・ハミルを呼んでみたいと言い出した。僕はピーター・ハミルのソロ・アルバム『Fool’s Mate』、『In Camera』やVan Der Graff Generatorの活動を知っていたので、びっくりしたが、デビッドは僕がOkayすると電話ですぐに呼んで来た。
ピーターはバースから20分くらいの山の中の2つした通りがない小さな町に住んでいた。まずレコーディングに参加してくれてから、その週末に僕を家に呼んでくれた。車でバースのスタジオに迎えに来てくれた。当時、彼の子供はまだ小さく、家族と一緒に暮らしながら、自宅で自分のソロ・アルバムを録音していた。車の中で山の風景に指を指しながら話した。『今のような近代的な世の中で、自分の子供たちが生まれた時からずっとほぼ同じ友達たちと付き合いながら、育ってゆく事はめずらしい事でしょう。』
家に入ると1階の奥の部屋に24トラックのテープ・レコーダーがあった。当時24トラックのテープ・レコーダーはまだ高く、自分で持っているミュージシアンは少なかった。彼は70年代に入って、『Fool’s Mate』の録音をしていた頃から、これからは自分で機材を持たなければ、やっていけない時代が来るかもしれないと感じて、自分で機材を買い始めていた。最初の内は手作りのように始めて行ったが、この頃になるともう慣れていた。そして、より良い新しい機材が出ると、それにどんどん買いかえて行った。90年代ではADAT.21世紀に入るとラップトップで自分のソロ・アルバムを録音していた。しかも、長年の録音経験をつんでいるから、仕上がりはデビッド・ロードが録音してミックスしたものに比べてもクオリティーは変らないレヴェルになっていた。それを一人で録音、ミックス、とマスターリングまで出来て、一人で印刷物を工場に出して、自分で世界中にパックして送るのだった。
この頃、家ではちょうど『As Close as This』というアルバムのレコーディングしていた。ポール・ライドアウトというデサイナー、プログラマー、でピーター・ハミルのライブのPAまでやる人が手伝いに来ていた。その時、録音している曲を聴かせてくれてから、2階に行った。階段の下の壁には今まで彼が演奏してきたミュージシアンの写真のコラージュがはってあった。Van Der Graffのライヴ・アルバム『Vital』の中ジャケットに使われていたメンバーの写真をはってあった。デビッド・ロードの写真もあった。

ここで僕は彼のインタヴィユをキーボード・スペシァルという雑誌に載せるために録った。

『1967年に大学で医学の勉強をしていて、もうすぐで卒業する頃にバンド活動の方が面白くなって、大学を中退してしまった。このバンドがVan Der Graff Generatorになった。始めた頃はちょうど“サイケデリック”が流行っている時期で、“プログレシヴ”が時代の流行りだった時期まで、その時代の波に入ったり、入らなかったり言われながら続けてきたんだ。
僕らが最初バンドを始めた時期は、8トラックが最新のテクノロジーだった。少しのエコーとテープ・エフェクト以外は全く自分たちであらかじめ全ての音をスタジオに入る前に作っておかなければいけなかった。ライブもその時代にはモニターがなく、PAもほとんど原始的な物だった。あの頃はまだロックは今のようにビッグ・ビジネスではなく、もう少し“カウボーイ”的な存在だった。
最初はイギリスで3日-4日ライブを演奏する事から始め、その内ヨーロッパのツァーに出かける事が多くなり、時間があくと全て歌を書く事に集中した。一週間でも家で休む事が出来ると歌を書いていた。
歌は哲学的な内容から宗教的な問題、人の持つ信念、時間と空間の捉えなどを表現する事が出来る。僕にとってロックというのはそういう内容を感情的表わすものだと思っている。文章を書くだけだったら、僕の哲学は自分の感情から切り離して書く事になる。歌の場合はその音や言葉に感情的な表現が入る。そしてそれが音楽的な表現になって行く。
言葉には同時に色々な意味を持たせる事が出来る。僕はそういう歌を書いているつもりだ。“私”が自分の物語を語っているのではなく、“私”という人物が登場するストーリーになっている。それを聴いてくれるお客さんはそのストーリーに対してそれぞれ自分の解釈をする。こういう客観的なタイプのコミューニケーションを僕は好むね。
僕の書いてきた歌を色々なテーマに分けてみると短編小説的な物、映画の1シーンのようにある部屋の中でおこる出来事、言葉の遊び、人間の夢、時空の中で起きる問題、や人間の信念など色々な種類になるだろう。
僕は自分ではそれをどのようなカテゴリーに入れたら良いのかは中々分からない。ロックと言えるのか、ポップスと言えるのかも分からない。自分が使いたいものを吸収して、自分の表現にしているだけだ。歌というのは最も国際的、あるいは宇宙的とも言えるようなテーマを表現する事が出来る。言いたい事が明解であれば、ほとんどの曲は1日や2日で出来てしまう。
一緒にやっているメンバーは19歳から続いている人も多いので、ほとんど顔を合わせなくてもテレパシーのようなコミューニケーションがお互いに成立している。
今のミュージック・シーンはどんどんビジネスだけに集中しているが、これからの時代に対しては大きな期待を持っている。というのはテクノロジーの発達によって、もっと色々な事ができるようになるからだ。商業的な音楽がどんな事をやっていても、自分で機材を集めて作れる事がより簡単になってくる。その内、大きな会社もそういった所から発達した音楽を無視出来なくなってくるはずだ。
80年代の初め頃はロックをよりオーソドックスな物にしようとしという動きがあった。例えば、今、パンクだ!と言っても何故、あの時代の中でパンクが必要だったかと言う問題を無視しながら、一つのファッションとして変な格好をしたバンドを“パンク”と言って連れて来てもなんの意味がない。形だけの物になったら20年間続いてきたロックはそこで意味がない物となって終わる。』

Peter Hammill, Ayuo, David Lord 1997