現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「イギリスから帰った1986年の秋」


イギリスから帰った1986年の秋

イギリスから帰った1986年の秋。『Nova Carmina』をプレスしようとした時何度もJVCのプレスの機械が壊れてプレス出来なかった。アルバムを出す時にはサンプル盤をまず一ヶ月前にプレスして、雑誌社やライターに回って、プロモーション出来るようにしてから発売されるものだが、この時これに間に合わなかった。やっとサンプル盤をプレス出来たのも発売日の数日前だった。そして僕の手元にも発売日を過ぎてから来た。誰かレコード会社の人は半分ジョーダンで僕は呪われているのではないかと言った。しかし、僕はこれを聞いて参ってしまった。
『Nova Carmina』はイギリスに行く前の予想よりもかなりいい出来になっていた。自分が昔から憧れていたミュージシャンと憧れていた環境で録音出来た。それから一人でイギリスに初めて旅をして、いいミュージシャンと出会い、録音して帰った物だった。普通だったら中々ありえない話だ。
しかし、日本に戻るとまたコミューニケーションの問題や僕に対する勘違いや色々な事に直面しなければいけなかった。イギリスにいた時は僕のそれまでの事を誰も知らないから、全くの白紙状態で初めて人と出会えた。さらに3ヶ月くらい殆ど英語しか話していなかったから、考え方も英語になっていて、日本語が自分の表現したい物にとって不自然な言葉に感じていた。
自分のアイデンティティーをどう出して行ったらいいか分からなくなった。
MIDIのプロモーションをやる人たちもプロモーションをそんなにやる気がなかった。僕と関わる事が面倒臭くなっていた。

ノイローゼ状態に入っていった。しかし、この状態の中で次々と曲や詩を書く事が出来た。勿論、そういう状態の時に書いた物が全て良いというわけではないが、言いたいメッセージがはっきりとフォーカスされて、そこに感情が入ってくる。ジョニ・ミッチェルの『ブルー』や『フォー・ザ・ローズズ』はそのような状態で曲を書いた事が伝わって来る。そして、レコードから伝わって来る感情に近い気持ちを持っていると安心出来る。世の中に自分と同じ気持ちを持っている人がいるのだと分かる。そしてその音にヒーリングされる。
僕に取ってヒーリングになる音楽とはジョニ・ミッチェルの『Blue』、『Hejira』,『Shadows and Light』『Clouds』やルー・リードの『Berlin』、そしてまた別の意味でグレートフル・デッドの曲『ダーク・スター』の1970年代初期のライヴ・レコーディングだ。70年代のグレートフル・デッドの『ダーク・スター』の演奏は長いアドリブを中心としている。それも毎晩違う演奏を目指していた。これを聴いているとアドリブの世界でも、深いコミューニケーションが出来るという安心感が伝わって来る。

ただ、落ちているように見える状態では人は近寄ってくれない。

この頃、ひたすら次から次と曲を書き続けた。それは自分の気持ちとして、曲を書き続けなければ、頭がおかしくなると思ったからだ。
1986年の10月頃から1987年の春までは『絵の中の姿』,ユーラシアン・ジャーニーの『君になれたら,』アース・ギターの『Evolving』,『Standing on the Edge』、そして沢井一恵のCD『目と目』に録音した2つの紅楼夢に基づく曲『Song for a Fallen Blossom』と『They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake』などを作った。
『絵の中の姿』,の一曲目になっている『8つの時に』を書いた時は夜中にDADGAGAという繰り返しパターンを弾きながら、言葉とメロディーを同時に書いた。自分の感情の動きを記録するように一音一音に念を入れた。今でも聴くとその力が伝わって来る。このような曲はテクニークと関係ない。ただ、このような曲の作り方をしてしまうと感情的にどっと疲れる。

これ以外に『春にゆるやかに舞う』という曲も作った。この曲には2つのヴァージョンがある。バンドでやったヴァージョンは『青い目、黒い髪』というCDでライブ盤が入っている。もう一つはパーカッションと篠笛のヴァージョンで1988年にソニーから発売した藤舎推峰と吉原すみれのCD『DUEL』で録音されている。
この頃、作った全ての曲は良いというわけではなかった。今聴くとそのノイローゼの状態が言葉にあまりにも伝わりすぎる曲もあった。しかし、このような物は後で直せると僕は思っていた。

本来はこれらの曲を一つのCDにして自分のソロ・アルバムで出すつもりだった。しかし、どこも出してくれる所はなかった。何故そうなったかは今でもよく分からない。『Nova Carmina』はそれまでのアルバムよりも出来がよく、次のアルバムのためにはアイディアはたくさんあった。ただそれをこの時に作れるチャンスがなかった。アルバムを制作するには200万-300万くらいは当時必要だった。これを実現するには制作費として出してくれる会社が必要だった。しかし、どこも現れなかった。

本来では
『Song of Songs』
『君になれたら,』
『Evolving』
『Photographs』(か『A Letter』)
『They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake』
『Standing on the Edge』
『春にゆるやかに舞う』
『Song for a Fallen Blossom』
というような流れのアルバムを想像していた。

MIDIとは3枚の契約は終わったし、何かプロデュースの計画とかを考えたらどうかと言われた。
この頃に筝奏者の沢井一恵の当時のマネージャー、平井洋から沢井一恵のCDをプロデュースしないかという話が来た。平井さんは『Silent Film』の頃から僕の音楽を聴いていて、彼の担当している演奏家と仕事をさせて見ようと考えていた。当時、彼は沢井一恵とパーカッションの吉原すみれを担当していた。

沢井一恵さんも『Nova Carmina』を聴いていて、その音の感じが気に入っていた。同じスタジオで同じエンジニアで取りたいという話だった。
そこで、僕の次のCDが中々決まらないので、そのため考えていたいくつかの曲を先に録音する事にした。それが『Song for a Fallen Blossom』と『They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake』。

1986年の12月を2週間香港と中国の広東で過ごした。それは僕がイギリスに行く時に、香港発東京系由ニューヨークの往復切符で、ニューヨークに降りてからロンドンに行ったからだ。実際は東京から乗ったにしても、こうした切符の方が東京発の切符よりも安く買えた。そして東京に戻ってもまだそこから香港の片道の切符が残っていた。香港に行っても3万くらいで向こうからの帰りの切符をきっと見つけられるだろうと思った。そして中国で殆どの時間を過ごすとあまりお金を使わずにいられると思った。

僕に取っての中国のイメージは子供の頃、ニューヨークの学校の側にあったチャイナタウンとクラスの同級性のイメージから作られていった物だった。アメリカで東洋人としているとまず“チンク”として呼ばれている。その内、自分の中で自分が“チンク”である部分が出来てしまうのだ。黒人にとって自分が“ブラック”であると同じ事かもしれない。

中国の伝統音楽から伝わった日本の伝統音楽は多い。東洋人としての自分のルーツを確かめたかった。

数年前にアメリカの日系人、中国系と韓国系は結婚をする時に何人を選ぶかという記事をニューヨークの日本人向けの新聞で読んだ事がある。日系人の女性の90%はアメリカ人の白人か黒人と結婚していた。そしてアメリカ人の中に溶け込んでしまおうと思っている人たちの方が多かった。日系人の男性は日系人の女性ほど異人種の相手が上手く見つかっていなかった。中国系の60%はアジア人と結婚していた。しかし、中国の文化の意識が強いため、結果は中国人の数が増える方向になっていった。韓国系の70%以上はお互いの韓国系同士で結婚していた。“民族意識”が強いからだ。最近の調査ではアメリカの社会では様々な民族の内、韓国系の男性が一番社会に溶け込めなく、そのストレスからトラブルになる事が多いと書かれていた。これは2007年の4月にアメリカ史上最悪の乱射事件が韓国人の青年が行なった後に書かれた事だった。ここではアメリカ人になって消えてしまおうとする人たちと自分の元の国のアイデンティティーにしがみつこうとする2つの対照的な態度が見られる。

中国では大きな筝を買った。そして日本の奈良時代と平安時代に伝わってきた唐時代の宮廷音楽を琵琶の譜面から復元した本をいくつか買った。アルバム『ユーラシアン・ジャーニー』の曲や日本の筝の演奏者、沢井一恵のために作った多くの曲に役に立った。
当時、自分が20代後半で日本人という意識がないのに人間として一人のアイデンティティーがあるとすれば、そのアイデンティティーを世界音楽の中で見つけなければいけないと思った。世界の伝統音楽は全てつながっている。日本の伝統楽器は中国、韓国やアジアに住む色々な人々から伝わっている。唐時代の宮廷音楽には中央アジアを始め、ペルシャの音楽の影響も含まれているといわれている。仏教はインドから伝わっている。仏像の作り方はギリシャから伝わっている。彫刻にはペルシャから伝わったと言われている種類もある。ナショナリズムはこのような音楽のルーツを曖昧にしてしまった。

現代の科学では現在生きている全ての人間(ホモ・サピアン)の先祖はアフリカから来ていると認めている。東アフリカのタンザニアが世界中の人間が最初に住んでいた場所だと言われている。そして60,000年前にアフリカの外に行った。40,000年前には中国にいた。40,000年から30,000年前にはヨーロッパにいた。20,000から15,000年前にシベリア大陸からアラスカに渡った。この頃はまだ氷河期だった。そして12,000年前には南米の下まで降りて行った。これはDNAの研究によって分かった事だ。科学ジャーナリストマット・リドリーも書いている事だが、DNAやゲノムの研究が進むほど民族主義や人種主義がいかに無意味かを科学的に証明されると書いている。
民族や人種と関係なく、血液型等のちょっとした事がより大きな違いを作る。性格的な違いを見るにも勿論そうだが、病気、特にガンの治療には重要な知識だ。リドリーによるとは2人のスイス人の間の遺伝子の平均的な違いの方が1人のスイス人と1人のペルー人の遺伝子の平均的な違いよりも大きい。民族や人種よりも一人一人の違いが多く、民族や人種主義は科学的に意味がない事が証明出来る。こうした事がもっと一般的に伝われば、社会や政治も変わらずにはいられないだろう。

遺伝子は環境によって変化し続けている。言語学の研究でも言語を覚える能力は遺伝的に親から子へ伝わるが、しゃべる言葉や文化はその育った周りの文化から学ぶ。僕は場合は一番言葉を覚える年齢の時は英語だった。自分の親の話す言葉と同じ言葉で育つ人はこのような問題を全く気づかずに生きて行く。

自分の育った環境で話して来た言葉が自分の実の母や実の父と同じ言葉であって、親と同じ環境で育った人はルーツの意識が無意識に育っているだろう。そういう人たちにとって僕のような人間は分かりにくいだろう。僕は自分が育ってきた環境から社会に出る前に突然切り離された。20歳の自分は人生の内、最も難しい時期に入った。それは家族の崩壊よりも自動車事故よりも大きかった。そしてその傷はより深かった。ニューヨークでイラン系の父と日系の母がいた環境から突然日本に来て、うまくいかない理由を何故周りの人たちは気が付いてくれなかったのか?とは言っても、みんな自分たちの問題で忙しかった。文化的なギァップなどには気付く時間もあまりない。さらにそのギァップが一番理解出来ない人々ばっかりと僕は出会うようになってしまった。僕の80年代のアメリカ人の友達、スティーヴ、は日本に来て大丈夫なタイプのアメリカ人とおかしくなってしまう人がいると言っていた。

僕はもっと文化の問題を深く探るべきだと思っている。人間一人一人は違う。育つ場所も違っていれば、一人一人が違う文化を持っているとも言えるかもしれない。

MIDIの宮田さんが契約が切れる時にもこう言っていた
『実は君が何をやっている人か分からないのだ。ギターの人なのか、キーボードの人か、作曲の人か、作詞の人か、ヴォーカルの人なのか、あるいはライターなのか。』
『昔そういうのはシンガー・ソングライターといっていたような気がするけど。ギターが一番自分の表現出来る楽器だね。キーボードは楽器一つも持っていないし。』
『だったら、もっとギターをやっていたら。』

しかし、3枚も僕のCDを制作して、何千万円のお金を制作や宣伝費に3年間も使い、結局、最後は“君は何をやっている人か分からなかった”というのは悲しい話だ。
1990年頃にキング・レコードのディレクターと話していたら、『えええ、キーボード弾けないの?』と言われてしまった。キーボード・プレーヤーだとずうっと思い込んでいたらしいし、僕の宣伝のされ方はそのように思わせるものだったと言われた。そのディレクターは言っていた『たいていはそのような間違いは音楽業界で起きないのだけどなー』。

沢井一恵のために『目と目』というCDをプロデュースした。最初は『目と目』という僕の曲と『絵の中の姿』の筝とヴォーカルのヴァージョンを中心に録音するつもりだったが、最初自分のCDのために取っておいた『Song for a Fallen Blossom』と『They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake』等『紅楼夢』のシリーズの曲も僕は録音してしまった。

2回目にバースに行った時も録音はスムーズに行った。5日間位で終わった。一日目はまず打ち合わせ、録音する曲の確認の練習をした。その間にデビッドはスタジオの用意をしていた。その日の夜、最初の曲を録音してみた。『橋を渡って』を沢井一恵のソロでエフェクトを決めてから2トラックのデジタル・レコーダーに録音した。この頃はまだデジタル・レコーディングは珍しかったし、高かった。2日目は『絵の中の姿』から3曲を太田裕美さんのヴォーカルと沢井一恵さんの筝で同時録音した。これらの曲は筝に付けるエフェクトを決めてから2トラックのデジタル・レコーダーに直接録音した。何度かトライして一番良いテイクを全員で決めた。夜は『目と目』を24トラックのアナログ・レコーダーで3人で録音した。僕はデビッドの持っているプロフェット2000のシンセでオクターヴなどパッドを所々に入れた。太田裕美さんは歌い、沢井一恵さんは筝を弾いた。録音してから、僕も太田裕美さんもバック・ヴォーカルを重ねた。それからそれぞれの音にエフェクトをたして行った。次に日はピーターハミルと彼の70年代のグループVan Der Graff Generatorのドラマー、ガイ・エヴァンスとピーターの紹介で来てくれた、サラ・ジェーン・モリスと共に『Song for a Fallen Blossom』を24トラックのアナログ・レコーダーで録音した。夜には近くに住んでいる、ジェームス・ワレンも訪ねてきて、バック・ヴォーカルを録音した。僕もエレクトリック・ギター、バック・ヴォーカルとプロフェット2000のシンセを録音した。この14分の曲は一日で完成した。バンドのマルチ・トラック録音としてはすごく早かった。その次の日はまずソロの十七弦筝の曲から始めた。元インクレディブル・ストリング・バンドのロビン・ウイリアムソンが作曲した『A Letter From A Stranger’s Childhoood』、伝統曲の『みだれ』そして夜には『2人は竹のいすにすわり空の月とその湖の反射をながめた』(They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake)を録音した。まずピーター・ハミルが朗読してくれる2人の女性を自分の近所から連れてきた。2人は姉妹で2人共詩の朗読会に参加している人たちだった。『紅楼夢』の2人のいとこのパートを読んだ。英語はとても美しく訳されていて、まるでシェークスピアの英語詩のように聴こえる。それにあわせて沢井一恵さんのメインのメロディーと即興的なパートを入れた。それに合わせて僕は2つのマーラーのサンプルの使った音色をプロフェット2000のシンセで弾いた。これにピンク・フロイド的なキーボード・パッドをうすく後ろに入れた。この音はデビッドがキーボードをいじっている内に出てきた。曲の最後の方の鐘のような音もプロフェット2000のシンセでたしてある。これもデビッドのアイディアだった。これでこのCDは完成した。素晴らしいCDになったと沢井さんも僕もデビッドもピーターも思っていた。その次の日、ミックスを始めたが、ほとんどコンピューターにあらかじめ録音しながらミックスの音もエフェクトも取っていたので一日半で終わった。信じられないほど早かった。

この後に沢井一恵さんのマネジャーの平井さんと一年ばかり仕事をした。彼は僕の音楽が好きだった。そのように僕は感じ取っていた。僕も、もしかするとうまくいくかもしれないと最初は思った。
しかし、中々仕事はこなかった。沢井一恵のCDは、作った人たち、太田裕美、ピーター・ハミル、デビッド・ロード、沢井一恵、そして僕はみんな良いと思っていたが、誰もそれを取り上げてくれなかった。どこのジャンルに入れたら良いかも分からないと言われた。

1988年に平井さんはカザルス・ホールに企画を持ち込んでいたプロデューサーと話して、僕に『紅楼夢』に基づいたミュージック・ドラマをカザルス・ホールで作る話を作ってくれた。ロック系のミュージシアンとクラシック系のミュージシアンが半々だった。
『石のかけら』というタイトルにした。僕自身は『Song for a Fallen Blossom』でやったようなロック・オペラを中心に考えていた。企画者がこのミュージック・ドラマをどう呼んだらよいかと聞いた時に僕はサイケデリック・オペラと言った。横尾忠則さんはサイケデリック・オペラといった名前のショーを何回かやっているはずだ。しかし、宣伝が始まると全く僕の予想とは違うものが宣伝されていた。モーツァルトのようなオペラを現代によみがえらせると書いてあった。これにはびっくりした。
『こんな事が書いてあると後でやっている事と書いてある事が全然違うと言われるんじゃない』と僕は言った。
『大丈夫だから。大丈夫だから。ノー・プロブレム』と言われた。
『僕はモーツァルトのようなオペラは書けないし、そのようにはならないよ』
『大丈夫だから。そういう事はこちらに任せてくれ』と言われた。

先にコンサートが終わった時の事を言ってしまうと、ホール側は書いてある事とやった事が全然違うと言って、そのコンサートの当日に制作側から下りてしまった。そして二日のホール・レンタル代を請求した。結果としては平井さんと企画者の人は200万円の赤字を払わなければいけなくなった。
僕も色々な友達から書いてある事とやっている事が全然違うと言われた。

僕自身はシンガー・ソングライターの延長で色々なワールド・ミュージックを個人的な理由で取り入れていた人間だったので、クラシックの音楽劇のオーケストレーションやアレンジは一人では出来なかった。しかし、クラシックの作曲家の音楽劇として宣伝してあった。
僕自身のそれまでの方法論というのはレコーディング・スタジオに入ってから、一つ一つ音を重ねながら作る事だった。今では家で一人でコンピューターでProtoolsという録音ソフトを立ち上げて録音してしまうが、当時はまだそういうものがなかった。キーボード一つさえも持っていなかった。僕は武満徹さんや高橋悠治さんなどと違って、クラシックの楽器の現場を若い時から見ている人ではなかった。そういう人たちはクラシックの方法論や楽器の使い方がすでに身についている。僕は自分で音を重ねたり、エンジニアやシンセサイザーのオペレーターと一緒に録音してきた人だった。ジョン・ゾーンと話した時彼も『僕らにとってのレコーディング・スタジオが昔の作曲家にとってのピアノだ』と言っていた。カセットのMTR(重ねて録音出来る物)はあったが、それではこの楽器編成のアレンジを録音してみる事は出来なかった。
クラシックのアレンジに手伝ってくれる人もいなく、スタジオを借りて、先にいくつかの曲を録音してみる事も出来ない場合は70年代から80年代の初めにやっていたバンドのインプロヴィゼーションの延長でやるしかない。西村卓也は80年代の始め頃からギター・トリオを一緒にやろうと思っていた人で、遠山淳は僕が日本で録音した多くのアルバムのシンセサイザーのオペレーターであった。ドラムには山木秀夫が演奏してくれた。まずはギター、シンセサイザー、ベース、ドラムで音を固めてからその上に筝、ヴァイオリン、パーカッションと高橋悠治さんのパートを重ねればよいのではないかと思った。そして、ジョン・ゾーンの書いていた音楽家が遊ぶためのゲーム曲や即興の方法論を参考にした。

このコンサートでは『紅楼夢』からのいくつかの台詞を日本語に訳して入れたかった。そして、僕の持っている英語訳そのものが独特だからそこから日本語に訳すのを手伝う人を一人探してくれないかと企画者に聞いていた。彼は僕は当時知らなかったが、ある有名な劇作家・演出家を連れてきた。僕はその人の作品の事は事前に何を聞いていないまま、ミーティングに行った。そして自分が下手な日本語のひらがなで書き始めた訳を見せて、それの日本語を手伝って欲しい話をした。相手の劇作家はびっくりした感じで『それで私は一体何をしたら良いのですか?』と周りの人たちに聞いていた。僕はその人はもうすでに独特なスタイルがある事で知られている劇作家・演出家だと知らなかった。誰もそのような説明はしていなかった。もしかして必要ない程知られている人だったかもしれないが、僕日本で知られている多くの人は知らなかった。
僕にとっては中国の古典『紅楼夢』に音楽を付けたいわけではなくて、自分の知っているニューヨークの1960年代の個人的なノスタルジアがその音楽の感情を作っていたから、僕をよく知らない人が勝手に台詞を付ける事はありえないと思っていた。自分にとっては個人的な作品だった。
コンサートの2週間前になっても全く台詞の事は決まらなかった。忙しいから打ち合わせも出来ないという返事が来た。
『何故台詞について話が出来ないのだろう?』と悠治さんに聞いた。
『それは君が自分で書いた訳をミーティングにもって行ったからだ』と答えた。
これはコンサートのリハーサルが始まる直前だった。ここで初めて企画者が連れてきた劇作家は英語を訳す為に来た人と思っていなかった事が気が付いた。
コンサートのリハーサルに突然音楽と関係ない台詞を持ってきても困ると思って、その人たちの参加を中止にしたいと僕は企画者に言った。
実はそれから後になってその劇作家が台本を書いた映画を見て、素晴らしい作品だと思った。もしも企画者が僕にどんな作品を書いている人かを教えてくれていたら、非常に面白いものも作れるはずだと気が付いた。
しかし、僕が書いていた『Song for a Fallen Blossom』や『They sat on two bamboo stools gazing at the moon and its reflection in the lake』が含まれている『紅楼夢』のシリーズの作品に向かなかったかもしれない。それは今となって、分からない事だ。しかし、出会い方の違いで大きく物事が変ってしまう事を知った。

このコンサートのプロモーションのためのインタビューはそれまで受けたインタビューの中でももっとも誤解の多い物だった。というよりもメチャクチャだった。クラシックの作曲家・キーボード・プレイヤーと書いたプロフィールが書かれて回っていた。ギターをやっている人だと言う事さえも勝手に新しいプロフィールから落としてしまった。ライターはインタビュー前にその記事で大体書く事を決めてから来るので、殆どコミューニケーションが取れない。クラシック・ピアノをやっている家庭で育って、現代音楽をやっている、全く別の人物を作り上げてしまった。事実ではピアノは全く初歩的な事さえも習った事がなく、右手と左手が独立して動く事さえも出来なかった。当然バイエルやバッハも習った事も聴いた事も殆どなかった。それが離れて育った親がピアニストと言う事で僕もキーボード・プレイヤーになってしまった。ここまで嘘になれば完璧というほど自分の本来の生きてきた人生と違っていた。まるで自分の目の前に壁を作り上げて、それに向かって人が話しているようだった。しかも僕が何を言っても関係なかった。僕は常に真実しか言わなかったが、真実が違うという事も理解されなかった。もう既に大体の記事は僕に会う前に書かれていただろうし、ライターもただ仕事で人に頼まれて来た訳だから、本当だろうと嘘だろうと彼らには関係なかった。おそらくどうでもいい事だったのだろう。
このコンサートの企画者もここまで疑問もなく、宣伝に言っていた事を信じていたのだろうか?僕も不思議に思うしかなかった。
これで仮面は完璧に作られてしまった。
そこから破いて自分が出なければいけなかった。

人に本当の事を語っても、メディアに載っている記事に違う事が書いてあれば、その方が真実だろうと人は思い込んでしまう。僕自身は1960年代の子供の頃から学校の先生がメディアに載っている物をそのまま信じるなと教わっていたから、物事を常に確かめてから行動しようと思っている。しかし、大体の人は、そういう風に行動しない。
メディアに載っている記事が問題なのではなく、僕がお父さんに対してなんらかのコンプレックスを持っているのではないかと勝手に思い込んでしまう。実は何も問題はお互いにはない。嘘を書いてしまった記事、その物が問題だった。それと真実を知る前に人の人生までも勝手に想像してしまう人の思い込みが問題だ。

このコンサートには面白い部分もあったが、もっと時間をかけて煮詰めれば、もっと良い結果になるはずだと思った。バンドとしてはいつも一緒にやっているメンバーではなかっし、このような音楽にはリハーサルをしながらまとめる事が一番いいと思った。遠山淳、西村卓也、巻上公一など誘ってそのままバンドにする話をした。

コンサートが終わった所で企画者は僕の事が全く理解出来ないと言った。僕も何故このような行き違いで物事が進めなければいけないのか?どうしたら直るのか?これはもはや重要な問題になっていた。
平井さんはこの頃から高橋悠治のマネジャーとなり、それと同時に僕とは仕事をしなくなった。ここでコレクタという事務所が出来た。

その冬にマルグリット・デュラスの小説『青い眼、黒い髪』に元づくロック・オペラを作曲した。この小説はあるゲイの男の人に恋をしてしまう女の人の話しだった。そこで2人が感じていた感情を色々な詩的なイメージで描かれていた。物語りは一つのホテルの部屋でおこない、登場人物も2人しかいない。その部屋で時々言葉を交わしながら過ごしている。特に展開するストーリーはない。全ては彼らの感じている心の動きだ。しかし、その細かい動きには人間の愛情から恐怖まで含んでいる。読むとトランス状態になれるほど面白かった。そして、僕がちょうど描きたい世界がその文章に見つかった。自分が言えなかった感情の表現がそこにあった。それはデュラスの小説とは少し違う部分もあったかもしれない。自分が感じていた事が音楽となって出てきた。僕は英語の本を読みながら、日本語の歌をそれに基づいて書いた。そして2-3日で曲をギターで全部つけてみた。10曲の組曲になった。2人の人物と彼らの見るイメージで話は出来ていたのでステージに音楽劇として持って行くのにそんなに難しくなかった。

異次元で踊ってから (『青い眼、黒い髪』より)

女:
わたしたちの心が死にとらわれなければ
きみから、望んでいたことを
町の男にたのんだ。
僕がそばでねころんで
わたしが、ねむってから
きみに言ってももらいたかった、言葉を言って
ゆっくりとわたしの上ではじめるようにと。
彼はそのとおりにした。
ゆっくりと
彼の声がきこえた。
彼の手はわたしの皮膚に火をつけた。
わたしがねているあいだ
彼があとで言うには
わたしの目がけいれんして、
おなかのそこから
血のような液体がながれて、
彼が、ゆっくりと、はいったときに
わたしは目がさめた。
そこで彼は恐怖で泣いた。
そして、彼の涙がとまるのをまってから、
もういちど
はじめて
よろこびがおりてきた。
いつまでもしんでいくように、
わたしたちは海の液体に沈めた。
いつまでも、異次元で踊ってから
ゼロに消える。

女:海の色は何色?

男:おぼえていない。

女:ああ

男:なぜ気になるの?
何色であるべき?

女:海は空から色をいただく。
それはひとつの色ではなく、
光のかげん。
もしかしたら死んでいくのかも

男:きみはあっていた。
死ぬために出会った。
いつ、誰を愛していたのかも
いま、誰を愛しているのかもわからない。
死んでいってもわからない。

男+女:今は夜明けではない
夕焼けだ。
時間の感覚さえも失った。

今CDを聴くとニューウエーブとプログレシヴ・ロックの影響が感じられるような作品だが、音の動きは2005年のTZADIKレーベルから発売された源氏物語の『AOI』の作品とも似ている。

このバンドは1989年に3回ライブをやって解散した。本当のバンドになった事はなかった。もっともバンドらしくやって行けたのはベースの西村卓也だけだったかもしれない。遠山淳は最初、色々なアイディアも出していたが、スタジオの仕事も忙しい上、彼のマネジャーはこのバンドに参加する事を反対していた。成功すると思われていなかったし、マネジャーとしてのメリットが彼には見えなかった。バンドというのはみんなで一緒に内容の事からチラシやライブやそのチケットを売る事まで考えなければ成立しないのだが、自分だけでやる事になってしまった。スタジオの人はチケットを売るところまで考えられないし、他のバンドをやっている人はどうしても他の活動の合間でしか参加してくれなくなる。僕自身もそれまでに自分でチラシを作るお金を出版会社に話に頼みに行ったり、チケットを売りに行ったり、雑誌社に自分からプロモーションしに行く事はやっていなかった。渋谷のパルコ・デパートの中にあるクアトロというライブハウスに話を持って行って、ブッキングをした。ライブの数週間前の打ち合わせの時、クアトロを代表する人は契約書を持って来た。そこにはもしも200人入らなければ、40万円西武デパートに払うという事が書いてあった。巻上さんはその契約書を見て、僕が責任者だから一人でサインをするべきだと言った。僕は必死でチケットを売った。色々なドキュメント映画の制作会社の人たちにも20枚づつに売り歩いた。評論家の秋山邦晴さんはちょうど多摩美大学で音楽プロデュース・コースと言うのを教えていたので、彼にも50枚くらいチケットを買ってもらって、生徒たちに配ってもらった。なんとかギリギリで200人埋めた。巻上さんは2枚くらい売ってくれた。西村卓也さんも何枚か売れた。他の人たちは中々売れなかった。
『青い眼、黒い髪』に関しては面白く出来たが、その後このメンバーでどうしたらいいか分からなかった。という事でこのバンドは終わった。

今でもこの作品に対するインタビューで忘れられない物がある。
『曲は全部スコアで書いてからみんなに渡すのですか?』
『いいえ、ギターで歌いながら作る。』
『何故スコアに書かないのですか?』
『このような曲をやるために書く必要がない。僕は子供の頃からギターで曲を書いている。』
『何故キーボードをやらないのですか?』
『キーボードは弾けないから。』
『いいえ、弾けるはずです。あなたはキーボード・プレイヤーになっているじゃないですか。』
『それは何かの間違いです。』
『あなたは一体何を言っているのですか?そんな事はありえません。真面目に質問に答える気がないのですか?』
『真面目に答えているじゃありませんか!』
『そうだとは思えません。』
『僕は真実を言っている。何故信じてくれないのですか!』
『話にならなくて全く残念だ。』
これはインタビューというよりは警察の尋問のような物だった。おそらく僕に会う前から僕はきっとこういうタイプの人間だと頭で思い込み、それと違っている事をいくら言っても見えなくなってしまっている。こうして帰ってゆくライターは勝手に僕が嘘を付いていると思い込み、嘘の原稿を書いてしまう。そして嘘はまた続いてしまう。それはもうどうしょうもない事になった。いくら真実を言っても聞いてくれなかった。なにを言ってもしょうがなかった。

僕自身も1985年からキーボード・スペシャル、音楽現代、タワー・レコードのフリー・ペーパーのMUSEE,などに原稿を書いたり、インタビューをしているが、このような事を人にやった事はない。

1989年の冬に知り合いの絵描き、スズキコージさんが『真冬の夜の夢』というオムニバス・ショーを浅草の木馬亭で企画した。彼の音楽家の友達やデサイナーや作家がそれぞれ10-15分間の演奏をしていた。ギターのイマイアキノブはここで初めて会った。スズキコージさんがいつもジャケットを長年やっていたフェイダインもセメント・ミキサーズも出ていた。当時セメント・ミキサーズをやっていた鈴木常之や不破さんこの時初めて会った。僕はアコースティック・ギター一つと歌で参加した。『Nova Carmina』の曲、『With Eyes Closed』をオープン・チューニングにしたギターで弾いた。久し振りに自分だけの出来る世界自分らしく表現したと思った。1990年には吉祥寺のマンダラ2で毎月1回ブッキングして、ライブをしっかりとやるようになった。1995年に21才の1982年の時から西村卓也と作ろうと話していたトリオは三浦知津子さんをドラムに入れる事によってやっと結成出来た。そして1980年代の後半に書いていた曲はやっと1997年と1999年になってイギリスに渡ってCDのために何百万円の予算を使って録音する事が出来た。『ユーラシアン・ジャーニー』と『Earth Guitar』は作れるまで11年以上も待った作品だった。

心の深い部分から思っている事はいつかは実現するものだった。ただ時間はかかった。

そしてまだ僕が人生で書いている曲は途中だ。