現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「80年代の面白かったコンサート」


80年代の面白かったコンサート

1975年の夏に後楽園で一日のロック・フェスティヴァルを見た。その時、出ていたアーティストはジェフ・ベック、四人囃子、や多くの日本のバンドだった。ジェフ・ベックは『ブロー・バイ・ブロー』という彼のインストのヒット・アルバムを出したばかり、これに入っていた曲を中心に弾いていた。演奏はよかった。でも何かが僕がニューヨークでそれまで見てきた雰囲気と違っていた。1990年以後は多分日本にいてもアメリカにいてもロック会場の雰囲気は同じかもしれない。でも日本で見たロック・コンサートはビートルスの武道館の公演以来だったし、何かが違うなとしかその時は分からなかった。四人ばやしの演奏もよかった。この頃、『弟が円盤にのったよ』というアルバムを出していた。少しプログレシヴなテイストがあるアルバムだった。
この頃からしばらく海外から来るロックのライヴを見なくなった。何かが違うという印象が残ったからだった。それは音楽だけではなく、会場での人々の集まり方、見方や雰囲気が違っていた。表面的にファッションが似ているだけだった。でも中身は違う歴史から来ている人たちの間で見ているという感じがこの頃は見えていた。これが変ったのは1990年代に入る頃だと僕は思っている。1990年前後にバンド・ブームがあって、同時ワールド・ミュージックという名前で世界の色々なポップスや伝統音楽を聴けるようになった。この頃にやっと子供の頃と同じ用に聴けるようになったと思った。
ロック・ミュージシャンのデビッド・ボウイはある時の1960年代の日本の左翼は当時の西洋の左翼とは違っているとどこかで言っていた。1960年代の文化は第二次世界大戦争の前後に生まれた世代が作った物だった。戦争の影とそれに対する反発がフォークやロックを始め、あらゆる文化で見えていた。日本の左翼は戦前の軍国主義を反対していたが、表面化してくる反米主義とアジアとの連結は戦前の右翼と似ている所が多かった。三島由紀夫もこの事についてはよく書いていた。日本の左翼には天皇陛下がないだけだった。中国では毛沢東、ソ連ではスターリンがこの役目にいた。
1980年代にはキンクス、イエス、ジェネシス、ボブ・ディラン、パブリック・イメージ、バウハウスなども日本で見た。1970年代で見た時のインパックトは感じなかった。音楽その物はよかった。PAの音も1960年代や1970年代に比べれば、大分よくなっていた。技術的にもバンドは進んでいた。ではどこが不満だったのだろうか?
多くのお客さんは自分のノスタルジーか過去の時代に出来た文化を見るような目でコンサートに来ていた。僕も実はそうだ。そして、それを一つのショーとして楽しませるためのバンドになっていた。過去にヒットを出したアーティストがラス・ヴェガスでグレーテスト・ヒット・ショーをやるのと同じように、そこにはもう新鮮な物や音楽や文化の冒険は見らなくなっていた。

1980年代の半ば頃、ちょうど僕が日本語をもう少し勉強したいなと思っていた頃に音楽について原稿を書く仕事をいくつももらえた。僕はひらがなもちゃんと書けない程でおまけに日本語の文法がまず理解出来なかった。言葉という物は考え方を表わしている物なので、考え方が違うから言葉も違う物になる。僕のたどたどしい文章をひらがなで書いた物を立冬者の山下さんや音楽現代社の荒井さんは毎回直してくれていた。よく、それを読んだ人でも、英語で書いてから訳したでしょうと言われた。実は最初から日本語で考えていた文章だが、考え方その物がおそらく英語的なので、日本語で最初から考えても英語的に聞こえていた。音楽現代社の荒井さんは毎月1回、僕の住んでいた成城学園前の駅まで来てくれて、僕に昼ごはんをおごってから、僕の原稿をじっくりと直してくれた。立冬者の山下さんも一ヶ月に1回、下北沢のいーはとーぼで“これは日本語になってない”と僕に言いながら、僕の原稿を直してくれていた。この人たちと出会っていなかったからば、僕の日本語は今よりももっと下手だったかもしれない。

1983年に来日したジョニ・ミッチェルのコンサートは凄くよかった。ジョニ・ミッチェルは50も違うギターのチューニングをする方法を自分で作っていて、それぞれの曲を弾く前、ステージの後ろでアシスタントがその曲のギター・チューニングに合わせてエレクトリック・ギターをもって来る。ステージの中心に立って、弾くリズム・ギターには彼女独特の響きがある。その響きは中世音楽やトラディショナル・フォークのモーダル世界を越えて、それにモダン・ジャズや印象派の広がった和声感覚を与えた物だった。他にはない響きだった。ハーモニーの響きはジョアン・ジルベルトの演奏するボサノバと共通する物もあった。特に彼女の『Hejira』や『Shadows and Light』でのジャコ・パストリアスとの共演ではその独特なギターの使い方がより強調されて聴こえる。このツアーは結婚して『WildThings Run Fast』の世界ツアーの時に日本によった時におこなった。DVD『Refuge
of the Road』でそのツアーの要素から50分くらいは見られる。しかし実際のコンサートは新宿厚生年金ホールで2時間以上のライブをやっていた。アメリカ独特に200-300年前に発達した発弦楽器アペレシアン・ダルシマーで『A Case of You』やソロ・ギターで『Both Sides Now』なども弾いていた。ジョニのキャリア全部から選んだ曲目だった。


1988年にイギリスでアシッド・デイズというホークウインドの一日のフェスティヴァルをロンドンで見た。1970年代の初め頃のホークウインドは観客を一体になったサイケデリック・ショーをやっていた。メンバーたちは当時ロンドンのヘイト・アシュベリーと言われていたノッティング・ヒルに暮らしていた。ヘイト・アシュベリーはサンフランシスコでヒッピーたちが集まって住んでいた所でグレートフル・デッドのメンバーたちもそこに住んでいた。ホークウインドはSFのイメージなどもライト・ショーや詩の朗読に使い、商業的な目的のために作られている部分もあったが、見にきている人たちにとってはトリップ体験が出来た。ダンサーもお客さんの所に下りて来て、一緒にマリファナを吸っていた。しかし、70年代の半ば頃からホークウインドのリーダー、デイヴ・ブロックはメンバーのドラッグの使いすぎが気になって、ドラッグをやっているメンバーを次々と首にした。そして、朝早く起きてマラソンをみんなでするという健康的な生活を残りのメンバーに要求した。時代もパンク、ディスコとフュージョンに変っていた。ドラッグでは答えは見つからなく、元ヒッピーがより健康的な生活を求める時代になっていた。そこでホークウインドは“サイケ”のイメージだけを残した商業的なショーを作るバンドに変っていた。健康的なダンサーやミュージシャンたちが“サイケ”のグニャグニャしたライト・ショーを後ろに映しながら作られたショーを見せていた。お客さんもほとんどがビールの大きなジョッキで次々と飲む酔っ払いが多かった。そこにリアルに体験出来るものは残っていなかった。昔の曲も演奏するのだが、70年代前半ではエコーに包まれた長いアドリブの中があった。そこの中にダンサーは自由に踊っていた。1988年のホークウインドは曲の長さもしっかりと決まった中であらかじめ振り付けされたダンサーが“サイケ”風な衣装で踊っていた。同じ曲でも全く違う物になっていた。60年代後半から70年代前半が作っていたその時代で意味があった物はもはや抜け殻になっていた。
マイ・ブラッディー・ヴァレンタインというバンドが出ている一日のフェスティヴァルもあった。これに行こうと思って会場の前に来たら、もうすでに完売していた。マイ・ブラディー・ヴァレンタインはこの時代でもっとも面白いバンドだと思っていた。マイ・ブラディー・ヴァレンタインのCDのミックスの方法はそれまでにロックのレコードになかった音に仕上ている。ささやく声がギターのエフェクターに包まれていて、言葉は聴きにくく一件会場のライヴ音源を遠くからテープに取ったようにも聴こえる。しかし、ベースやドラムは力強くうねっている。マイ・ブラディー・ヴァレンタインのミックスを聴いたU2をプロデュースしていたブライアン・イーノは今一番新しいサウンドを作ったと言っていた。このバンドこそはサイケデリックのいい部分とパンクの激しさとメロディーの美しさを総合した物を創作した。彼らの『Loveless』というアルバムはあらゆる時代のロックの中でも名作だと僕は思っている。他この時代のバンドから感じられなかった新しい物を作るリスクと刺激が感じる。そしてそれは新鮮な音楽を作る上での一つの重要なファクターだ。
1980年代ではプリンスがポップスの世界では目立って色々な実験をリスクをちりながらやっていた。彼が最初に』世界中でヒットした『パープル・レイン』の時ではマイケル・ジャックソンとよく比べられていたが、実際は全然違うタイプのミュージシャンだった。彼は一人でギター、ベース、キーボードを中心に色々な楽器を色々なスタイルで弾けてしまう上、常に大量の音楽を作り続けている。まるで自分の日記を毎日書くように楽しんで書いている。そこの中にR&B、ロック、ファンク、ジャズの要素を実験的に自分なりのサウンドにミックスしている物が多い。時にはフランク・ザッパやプログレのような複雑なリズムやクロマチックな動きも簡単にこなしてしまう。『パープル・レイン』の頃も大量に海賊版が出回っていた。あまりにも多く作りすぎてレコードには入りきれなかった。曲を作っている時にこうしたらどうなるかなという実験的な心が伝わってくる。これは1980年代の多くのロックにはほとんど感じなかった事だ。また、多くのアメリカのブラック・ミュージックは商業的で保守的な世界にいる物がヒットを出していた。トップのヒットを出しながら、1960年代後半にロックにあった刺激を与えられるR&Bのミュージシアンが久し振りに登場したという感じだった。彼の1992年の『プリンス・アンド・ザ・ニュー・パワー・ジェネレーシン』(あるいはラヴ・シンボル)と言われているアルバムは僕の好きなアルバムの一つだ。このアルバムを発売する前のツアーを日本の東京ドームで見たが、これはよかった。

音楽がその時代の物として生き生きして聴こえてくるためには、それまでになかった新鮮さを感じさせる事だ。

ホークウインドを見た1988年にジェーン・シベリーというカナダ人のシンガー・ソングライターをロンドンのICAというアート・センターのホールで見た。彼女の音楽も独特だ。そしてライブで最もよく伝わる。『The Walking』というCDを出したすぐ後だった。彼女の音楽はプログレシヴのようにいくつものパートで組曲にように出来ている。当時、彼女の音楽はロリー・アンダーソンともジョ二・ミッチェルとも比べられていたが、本質的には違う世界を持っている。ジェーン・シベリーも自分の日記を音楽を通して描いているような感じが伝わって来る。彼女の言葉がまずあって、それに絵を描くように音楽を作っている。表面は非常に繊細だが、力強さが伝わって来る。人によっては好きになれないかもしれない。僕はこのCD『The Walking』が一番好きだ。

1990年代になって、日本でもワールド・ミュージックのWOMADフェスティヴァルなどが行なわれるようになった時代になると、もう一度1960年代のフェスティヴァルのような雰囲気が戻って来たような感じがした。そして今度は日本にいてもヨーロッパにいても、アメリカにいても、同じような物が同じような経験として見れるようになった感じがした。
1992年になるとアメリカではクリントン大統領の時代になり、やっと12年間の共和党の保守的な時代は終わった。1960年代はケネディー大統領で始まり、民主主義と自由がキーワードでそれが公民権運動、学生運動、反戦運動と広がっていった。その時カリフォルニアの知事、レーガンは保守的でヒッピー世代には嫌われていた。しかし、1980年代になるとレーガンが大統領になり、保守派が世間にカッコよく見えるようになった。ヒッピー世代が1960年代で“お金はいらないよ”と歌っていたとすると、1980年代には同じ人たちがヤッピーになり、金儲け主義の文化を讃えている。180度違った事を言い出した。これはMTVを中心とした表面的なカッコよさが大切にされる時代で売れ続けるにはしょうがなかったのかもしれない。1960年代のファッションも考え方もばかにされる時代だった。そして1990年代になると今度は60年代がファッション的に流行りだす。ヒッピーからヤッピーになっていたジェファーソン・エアプレーンは1989年にまた1960年代のジェファーソン・エアプレーンとして復活しようとしていた。イエスは元のプログレシヴなサウンドに戻った。多くの1960年代や70年代のバンドが復活してきた。そしてヒッピーの服装をしたレイヴ・カルチャーやクラブ・シーンがテーンエイジャーの間で流行った。勿論、その流行っている意味は1960年代の時とは違っていた。しかし表面的には似ていた。そしてまた2000年になると保守派の力が戻って来た。キリスト原理主義者が力を持ち、ゲノムや進化論の進んだ科学の研究にも力を入れなくなった。どういう人たちが権力を持って、何にお金やエネルギーを注ぎ込むかによって、その時代の文化も科学も変ってしまう。科学研究はもちろん政府の研究費にたいする援助がなくなると、それだけ発展するスピードも落ちるわけだ。クリントン大統領はこの事をよく分かっていて、2000年の選挙の前の夏までにヒトゲノムを分析した発表の締め切りを作って、科学者たちを急がせた。この時代までバイオ・テクノロジーはそれまでになく、見事に発展し続けていた。ブッシュと共和党が選挙を勝つと進化論やダーウィンさえも反対するキリスト原理主義者たちが力を振り回すようになった。

1989年頃にアート・リンゼイのプロデュースしたアルバムを通してカエタノ・ヴェローゾやブラジルのポップスを発見した。実は1986年にニューヨークでジョン・ゾーンのスタジオでアート・リンゼイに初めて会った時にも彼はカエタノ・ヴェローゾをプロデュースする計画やブラジルのいろいろなミュージシャンを紹介する企画を僕に語っていた。だが、そのアルバムを手にするとまず歌詞にびっくりした。ポップスの言葉というよりも現代詩だった。これをポップスやボサノバの音楽の上に歌うというのは凄い事だと思った。カエタノ・ヴェローゾは本来イタリーのフェリーニのような映画監督になりたかったらしい。自分の事は歌手だと思いたくないと言っていた。彼の世代はボサノバに影響を受けたが、ボサノバも最初現れた時はニュー・ウェーヴやパンクのような衝撃的な物だとは知らなかった。ボサノバのギター・スタイルを作ったジョアン・ジルベルトは黒人が大多数のバイア州出身で、その環境でボサノバのスタイルは作られた。彼はチェット・ベイカーのようなクールでカッコよい人間に見られていた。当時エモーショナルなラブ・ソングが多い時代に1分から2分の短い曲の中に小宇宙を作っていた。アレンジも必要な音しか使わないほどシンプルだったが和音その物は複雑だった。ドビュッシーやラヴェルやベルクやモダン・ジャズのような複雑な和音を使っていた。初期の録音のアレンジはアントン・ウエーベルンなどとも比べられていた。
ジュアン・ジルベルトはニューヨークにいた子供の頃に見た事もあったが1980年代の終わりに再発見した。ジョニ・ミッチェルがオーペン・チューニングで出すような複雑な和音を独自のフィンガーリングですでに1950年代からやっていた。カエタノ・ヴェローゾとジュアン・ジルベルトの音楽や言葉の使い方から影響を受けるようになった。