現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー
「日本語が分からない。1978-1982」
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自分にはいくつも違う可能性が1975年まではあった。もしも、ニューヨークにそのままいたらどうなっていただろうか?自分の知っていた人たちはどうなったのか?
また、ニューヨークに住んでいた自分は日本にいる自分とは別の存在だった。別の人として、見られ、別の人として生きていた。しかし、その日本で見られている自分は自分ではないと思っていた。ニューヨークに住んでいた“僕”にはイラン系アメリカ人の義父と日本人の母がいた。当時のアメリカの政治的な動きも自分の未来とかかわるものとしてみていた。ロックが好きで、少しぼーっとした感じだったので、ドラッグをやっているのかとよく聞かれていた。短編小説を書いたり、みんなの前で朗読する事が好きだった。クラスの人も次に書く僕のお話を待っていた。僕の友達はニューヨークのストリートで育った人たちで後にファンク・ミュージシャンや音楽関係の仕事をやるようになった人たちが何人かいた。それが突然、別の文化の町に置かれたままになった。日本では日本の学校も行った事がないから言葉使いが硬いと思われた。それから、ニューヨークと違って、町の言葉を聞いて育っていないから上品な育ちだと思われた。本当は言葉がちゃんとできなかった。話すとすぐに誤解を受けた。しかし、後で聞くと自分が言葉使いが分かってないから起きた事が多かった。しかも多くの人たちは僕の言葉使いが何故間違っているかなど気付く時間も暇もない。人に自分の言いたい事は伝わらず、コミューニケーションもちゃんと出来ないまま、別の人物に回りからされてしまった。このような事はおそらく経験した人ではないと分からないと思う。しかし、長くそのような状態でいると頭が変になって、ノイローゼになり、事件を起こしそうなる。僕が自分のCD『絵の中の姿』で阿部公房の書いた小説『他人の顔』の映画のテーマ曲を取り上げているのはこの小説に出てくる人物の状態が自分に近かったと思う部分があるからだ。ずっと別の人物としてマスクを付けたまま生きていると、誰も本心や何を考えているかも気付かず、しまいには犯罪者や人殺しにもなるかもしれない。
文化というのは自分の育った社会やコミューニティーの事だ。人種や民族の事だけではない。在日韓国人を韓国に連れてってもすぐに韓国人にはなれない。母や父が日本人だからといって、オートマチックに日本文化が理解出来るようにはならない。悪魔でも自分の育ったコミューニティーの文化しかわからない。そのコミューニティーに人種差別があって、その人間が異人種であれば、そのコミューニティーではマイノリティーである。そしてその意識が心の中に刻まれている。アメリカの黒人はアフリカ系でもアフリカ人ではないと同じように。そのような意識が文化的な意識の一部分になっているから絶対に消えない。世の中はある意味でどんどんグローバルになっているのに、何故このような文化的事がいまだ理解されてないのか?それも多くの文化人も全く理解してない事が悲しい。
だから、ニューヨークに戻る事は再び15歳以前の自分と出会う事にも見えていた。
1975年の夏休み旅行のまま、戻る場所を失った僕はこの国に住み続けている。
父と、やはり母親を失った赤ん坊の弟と暮らすことになり、最初のうちは僕は英語でしか教育受けた事がなかったので、インターナショナル・スクールに通っていた。
1970年代の後半、父は次第にピアノと現代音楽系の作曲をしているのが嫌になって、左翼的な政治集会で大正琴を弾きだした。何故そういった道を選んだのか、僕には未だにその理由が分からない。ただ多くの1938年生まれのミュージシャンはヴェルヴェットのニコのように第2次大戦が子供の時に終わり、その時の政治的な変化が心のどこかで影のようにひそんでいるように僕には思えた。2年経つと僕はインターナショナル・スクールには行かないほうが良いと父に言われ、言われるままに高校を中退した。
一つにはピアニストとしては100万円はすぐに稼げる地位にいたが、政治集会で大正琴を弾いても良くて一日1万円ぐらいしか渡されない。それでも、ピアノを弾くより政治集会に行くのが楽しかったのだろう。だから、お金のかかるインターナショナル・スクールには行けなくなった。
更にもしも、僕が音楽をやるならば、学校は必要ないと考えていた。元々、父は学校というシステム自体を嫌っていた。彼が経験していた1950年代の終わりのように、仲間を見つけて、必要な事だけを習いに行って何とかなるだろうと思ったのかもしれない。
しかし、僕は元もと一人で本を読んだり、研究したりするのが好きな性格で、人と酒を飲んだり話したりするのがあまり好きではなかった。その上、全く知らない国で、学校にも行かずに仲間を見つけたりしようとするのは想像以上に大変な事だった。誰も知らない上にその国でそれまでにどんな文化があって、どんな考え方をするかも分からなかった。言葉も殆ど読めず、話も通じるように出来なかった。当時、口を開くとどこの国から来たのですか?とよく聞かれた。自分の世代がどういうものを見て育って来たのかも分からなかった。
少し言葉や反応が普通に日本で育った人に比べて遅かったりすると、どこの国の人だと怪しまれる事が多かった。初めて一人で住んだ時、警察官が僕の家を訪ねた時に『どこの国から来た』と何度も訪ねられた。日本人だと答えても信じない顔をしていた。おそらく朝鮮、中国かアジア人だろうとずっと思っていたように僕は見えた。そして何度も確かめるようになった。1989年頃に出会った鈴木常之というミュージシャンは僕の話し方は子供の頃にいた在日朝鮮人を思い出すと言っていた。この頃、もしもアメリカっぽい格好をしているとカッコイイと思われ、変なアジア人と見られると怪しい目で見られた。
しかし、だからと言って、在日朝鮮人や韓国人と親しくなれるわけではなかった。彼らには彼らの日本の社会でのアイデンティティーがあり、自分たちのコミュニティーもある。一人で一匹狼のように残された人にはそのようなコミュニティーはない。もっと孤立した存在になって行く。
勿論、そういったハンディキャプを持っていても、何とかなる性格の人もいる。僕はそうではなかった。
離婚している両親を持っていて、育った時にも学校ではどうしていたかも見ていなく、一年に会っていた回数も限られている場合、本当はその人の事をよく分かっていない。これが離婚している両親を持っている場合のトラブルの元だ。分からない事があると母親は君は父親に似ているのだよと言うし、父親は君は母親に似ているのだよと言う。つまり、自分は知らないという事を両方の両親から言われる事になる。そして知らないからどこかで自由に勝手にやっていてくれという事になる。
中学の時から僕は短編小説を書いたり、詩を書いたりするのが好きだった。それにギターで伴奏を付けて歌を作り始めていた。一ヶ月に1回自分が朗読する場が学校にあった。それを聴いてくれる友達がいた。自分の性格は15歳になると出来ていた。高校になって、日本のインターナショナル・スクールに行くと文化や歴史に興味を持って、文学と歴史を中心に勉強していた。詩の朗読会にはいつも出ていた。オリジナル詩の朗読では何度か賞をもらった事もあった。
日本人の社会では僕はコミューニケーションが取れない変人になるとは思いにも寄らなかった。
さらに日本で今まであったタイプの人たちの中で自分のような立場の人を理解出来にくいのは在日韓国人の一部の人たちだと思った。在日韓国人たちは何よりも民族が大切だと思っている。しかし、彼らの言う民族というのはアメリカの人種主義や、ナチス時代のドイツの人種教育と同じように聞こえる。それは、ナチス時代のドイツのように、ゲルマン民族はこういうもので、ユダヤ民族はこういったものだという人種教育があったのと同じように、在日韓国人達は、民族教育という科目で日本人はこういったもので、韓国人はこういったものだ、という教育をうけている。常に日本民族はこういったところが韓国人は違う、と考えている。韓国人はこう行動して、こういう考え方をするという事を民族や血で決めつける。日本人はこのような料理の食べ方をする。韓国人はみんなこういう食べ方をする。日本人このように歩く。韓国人はこのように歩く。だから音楽のリズムも違う。ナチス時代の人種教育では、アリア人はこういう行動をして、ユダヤ人はこういう行動して、スラヴ人はこういう行動をするという事を人種の教育として教え込んでいた。
アメリカの60年代の学生運動やプロテストはヴェトナム戦争に入り込む以前に公民権運動として始まった。アメリカのユダヤ人たちのフォーク・シンガーたちや黒人たちが人種主義に反対する事から始まっていた。勿論、東洋人である僕も常に“チンク、チンク”と呼ばれ、みんなきっと親はチャイニーズ・ロンドリー(洗濯屋)をやっているに違いないと決め付けるのが普通だった。チャイニーズでもジャパニーズでも20世紀の始め頃からいた大部分の人たちはまずクリーニング屋や家の召使いとして働いていたからだ。小学生の頃普通のパブリック・スクールに行くと両目を人差し指で吊り上げ“チンクだ、チンクが来たぞ”と叫びながら走り回る白人の風景はどんなアメリカの東洋人でも見たはずだ。
だから、僕らはそういった人種的な差別に対して非常に敏感だ。日本は韓国人である自分たちの文化を否定して、戦前は韓国内でも強制的に日本語で会話させた。そのため、韓国人たちは自分たちのアイデンティティーを強固に主張したがる。60年代にいたアメリカの東洋人とは逆だ。“私たちも同じ人間だ”と言っているのではなく、“私たちはあなたとは違う”とまず言う。僕らから見るとそういった民族主義者は精神異常者にしか見えない。アメリカで英語を話している家庭で育つと、自然にアメリカの回りの文化が自分の社会のものとして感じながら育って行く。これは自然だ。日本で育つ在日韓国人も日本の文化の中でアウトサイダーとして育つ。しかし、その影響を否定しながら、自分たちは周りと違うと言い続けないといけない。そして、反日である事がナショナリズムになる。本当は日本で育って、日本の文化的な影響を受けていて、日本語で考えて行動している。しかし、実際は韓国の文化から自分たちが離れていく事も否定しなければいけなくなる。これは歴史が作った不幸な出来事かもしれない。残念ながら異常な民族主義や人種主義は、最終的には第二次大戦争のように戦争にしか繋がらない気がする。自分にやられた事はまたやりかえさなけば気が清まない。怒りは知らない内に人間を自分の敵と同じような人間に変えてしまう。
何年も後に僕が『葵の上』の曲(CD『AOI』)で言いたかった事もこのような事だ。この作品は源氏物語の葵の話に基づいて書いた世阿弥の能をテキストに使っている。この話では六条が自分を傷付けたのはお前だと言って、生きたまま霊になって葵の寝ているところにやってくる。そしてお前が苦しむのは傷を付けたのだから当然の報いだと言う。昔、アメリカの詩人、エズラ・ポンドは、これは葵が見ている夢の中に六条が出て来ているのだと思った。そして、そういう物語として英語に訳してしまった。(源氏物語を読むとそうではない事が分かる。)傷付いたと思っている人は同じく傷付いたと思っている他の人を引っ張り寄せてしまう事がある。だが“怒りは地獄で燃える事にしか繋がらない”と葵に出て来る巫女は六条に歌う。
日本語もちゃんと話せず、70年代の後半までの日本についてなにも知らない人でも、両親が日本から来ているという理由だけで自分の敵である日本人と決めつけ、みんな日本人は同じとしてしまえるのはいったいどんな教育だ?在日韓国人の多くも韓国語がしっかりと話せない。そして、日本のテレビを見てその文化の中で育っている。僕のような人との大きな違いは、彼らには在日韓国人という仲間意識がある。肌の色が黒いのはみんな同じで肌の色が黄色い東洋人はみんな同じと言っているのと全く同じだ。彼らの言っている“民族教育”というのは勿論ナチスの人種教育と同じだ。僕自身も人種的な差別というのが分かっている。その血筋しか見ていなく、血筋に対する考え方もナチス・ドイツの時代と変わらない。最近の生命科学はもっと進んでいる。今現代のこの世の中で、今まだそんな事が許されているという事が理解出来ない。しかし、僕のケースは『他人の顔』に出て来る主人公のように一匹狼だ。僕と同じニューヨークの60年代で育った文化の人間は周りにはいなかった。
この時期にある日本人の作曲家と知り合った。最初、彼は英語を教えて欲しいと言った。それから彼の家に行く事になった。よく英語を僕が教えてから彼の奥さんがご飯を出して、話すようになった。
彼は最初会った時、髪の毛が長く、ヒッピー風の格好をしていた。そしてピンク・フロイド等を聴いていた。表面的には僕にとって親しみやすい感じの人だった。
しかし、人間には最初出会う時には分からない物がたくさん潜んでいる。見かけでは分からない。
彼は作曲も教えていたが、彼が大学に入った時は学生運動がちょうど激しくなった時期で、大学が封鎖してしまった。そのため、一ヶ月ぐらいしか授業を受けた事がなく、その後に中退してしまった。彼には感覚的にしか作れない人で、理論をあまり勉強した事がなかった。彼は好き嫌いしか言えず、教える能力がなかった。専門学校に人の紹介で入って、教えていたが、すぐに首になった。彼から音楽で学べる物はなかった。彼はソルフェージュも長音も和声楽もオーケストレーションも出来なかった。よく作曲家はスケッチを書いてから、作品に取り掛かるが彼はそう出来なかった。彼が作曲する時はピアノで一つ一つの音を確かめながら、ノートに書いていって、後でまとめていた。彼の奥さんは正式な作曲の勉強をしていて、彼の作品をまとめるのも手伝ったりしていた。彼が教えるというのは生徒が書いてきた曲を見て、好き嫌いを言う事だった。彼には方法論も知っていなかった上に理屈も理論もなかった。曲を分析する事も出来なかった。教える能力がないから、彼から学べるものも何もなかった。
彼は右翼ぽいと言われていた。彼の父は第2次大戦争の時に英雄だった。彼の趣味は毎日中国人を捕まえて、首を切り落とす事だった。それは別に戦争だからといってやらなけらばいけない事ではなかった。人が殺される前の恐怖感を見て楽しみたかったからだ。だから、その時の自分の立場を使って、自分のサディズムを思うままに現実化していた。戦後は頭がおかしくなったという事になっていたらしいし、戦犯として捕まった事もないらしい。もしも、ドイツだったら、ユダヤ人の裁判に出されていただろう。このような人たちが中国や朝鮮で猟奇殺人や変態的な事件を起こしたまま、うやむやになったままだから今でも中国と朝鮮と問題があるように僕は思う。
彼は人は自分の両親の続きだから、自分の親の考え方も分かると言っていた。彼にもサディズムの傾向はあった。その状況になっていたら、同じ事をしていたに違いない。彼のサディズムはその話し方と行動に見えてくるようになった。警察が犯人を少しずつ尋問しながら相手を分からなくして、相手を崩してゆくような話し方を彼がその内するようになった。その時、彼の目はネズミや小さな動物を少しずつ殺してゆくのを楽しんでいるような目つきをしていた。彼の父が人を殺す時にどう楽しんでいたかが想像出来るような目つきだった。多くの左翼や政治犯もこのようにして尋問しながら殺したのだろうと思うようになった。何人か僕の知っている音楽家は、彼は何か気持ち悪い物を感じさせると言っていた。
何故、彼が僕に英語を教えてと頼んできたのかは分からない。当時、彼はまだ20代後半だった。まだ、色々な音楽関係の人たちとコネを繋げているところだった。僕は当時、中国の文学や音楽に興味を持っていた。本当はニューヨークで一番身近にあったアジアの文化は中国の物だったから、僕にとっては懐かしさがあった。しかし、彼にとっては僕のお父さんが左翼的な政治の事を書き出している時期だったから、僕のお父さんの影響で中国に興味をもっているのだと思いこんでしまった。僕とかかわる事で彼にとって何かいい事があると思ったのかもしれない。最初は彼に会うと丁寧な話し方をしていた。しかし、しばらく経って、僕と付き合っても、特に彼に得な事はなさそうになると、態度は少しずつ変わっていった。そして、僕から英語を習うのも止めた。
彼のコンプレックスがどんどん出てくるようになった。後で考えると僕の存在そのものが彼のコンプレックスを出させていたのかもしれない。彼はすぐ日本人はこうだ、ああだと話し始める。彼も民族主義的な考え方をする人だった。彼は第2次大戦争までの日本は正しかったと言っていた。そして、すぐに『君は何も分かってない』というのだった。『日本人というのは』といつも口癖のようにしゃべっていた。もしも、僕がどういうことかと聞いてもそれを答える能力も全くなかった。ただお前には分かってないというミステリアスな顔をするだけだった。アメリカで育った僕は、平均的な日本人の考え方もどんなものかがまだ知らなかった。
人と人の出会いには不思議なものがある。人が普段見えないところにいろいろなコンプレックスや影が存在している。それを知らずに刺激してしまうと、場合によっては思わぬ事件に発展して行く事がある。
例えば、トルーマン・カポティーのノン・フィクションの本『冷血』ではアメリカン・インディアンの血を引いた青年と白人の青年が出会い、盗みをするはずが、殺人事件に発展してしまう、という事件について書いている。これもこの二人の出会いと心の奥底に持っていたコンプレックスを刺激する事がなければおきなかった事件だろう。これは悪い典型的な例だろう。
ある時、彼はこう言った:『西洋哲学はみんなダメだ。』
僕:『何故?』
僕はよく何故とかどうしてとか聞くがこれは英語の会話の中でのWhyで、答えその物を聞いているのではなく、何故あなたはそう思うのですかと聞いている。
『だって、哲学って幸せになりたいための読むもんだろう。ほら、連中は幸せになってないじゃないか。』
彼は日本の方が優れているといつも言いたかった。それに理屈はなかった。感情しかなかった。西洋人は全て“連中”だった。それは第二次大戦争の敵と見ていたからだった。
『シェークスピアは日本の能と比べられる事もあるが、日本の能の方が全然上だ。』
彼は漫画ばっかり読んでいた。彼にとって分からない物は全て“バカ”だった。自分が勉強してない物に対しての逃げ道だったのかもしれない。彼はエッチな話しをするのが好きだった。僕があまりそれに反応しないのを見るとよけい、そういう話しをしたがった。その内、笑ってごまかすくせが僕に付いた。彼は自分の恋愛体験やセックスの話しをするようになった。酒を毎晩飲んでいた。音楽は本当は演歌が好きだった。しかし、実験音楽やクラシック系の現代音楽を作っていた。しかし、彼の作品が演奏される度に。その演奏家の悪口を言い出していた。
ある時80年ごろに、ウエーベルンという戦前の現代音楽の作曲家は実はナチスの考え方に同調していたと言う事が残っていた手紙や人の証言から発見され発表された時、多くのアメリカのユダヤ人たちの作曲家たちはウエーベルンは信じられないと言い出していた。
これは彼のコンプレックスにとって、恐怖感を与える事だったかもしれない。彼はそんな事は彼の音楽の良さと関係ないと普通以上に怒り出して興奮していた。
彼は芸術音楽という雑誌の編集者と親しくなった。僕も彼の家で紹介されて会った。しかし、彼は僕にこう言った:『あいつみたいなやつと付き合うのは彼が芸術音楽の編集者だからだよ。そうじゃなければ、誰があんな奴と付き合う。バカだなー。』
彼は僕にはどんどんラフな話し方になっていった。日本語がまだちゃんと出来ない僕にとっては彼が僕に対して話すラフな話し方が移ってきた。15歳まで話している言葉は自分の言葉に出来るが、それ以後に習う言葉はどこかに訛りがあったり、自分の物には出来ないと、遺伝子の研究する本ではいろんな例を出して書いてある。日本語の使い分けが出来る人にとっては立場のある人には丁寧な言葉づかいをして、年下や立場のない人にはこのラフな話し方をするが、日本語という言葉で育ってない僕にとっては聴いた言葉使いがそのまま使い方として残って、自分が話す時に出てくる。
彼の英語の売り込みの手紙をいくつも書くのを手伝った。そして、彼は鍋を僕にごちそうした。彼は色々な所に自分の作品を何とか売り込もうとしていた。利用出来るものは利用していった。
僕は彼がニューヨークに行けるための手紙を大分手伝った。彼は僕の音楽を手伝った事はなかった。むしろ、他の人たちに悪く言うようになった。『僕は彼を教えようとしているが彼はまだ全然分かっていない』と言う風に人に言う事によって、彼はよく見られ、僕は低く見られるようになった。彼はコネがある人やエライ人には目を合わせず、自分ははあなたより低い人間ですという態度をとった。
近くに行くと人間の嫌な面を色々見る事になる。
最終的に彼の作品はアメリカでは受けた。彼の作品のいくつかはニューエイジ風に聴こえなくもない。西洋にはない、彼のミステリアスな部分が受けたのかもしれない。それに彼の音楽にメッセージがない訳ではなかった。彼は父の事もあって、呪われている雰囲気が彼にあった。アメリカの作家、ナサニ-ル・ホーソーンも彼のおじいさんが魔女裁判で何人もの無実の女性を死刑にした事に悩まされ、恐怖をテーマにした小説をいくつも書き続けた。これと同じように彼と話すといつかは仕返しされるかもしれないという恐怖が感じられた。
彼も僕の言っている事は全く理解しなかった。どういうところから来た人間なのか、どういう家庭から育ったのか、どういう文化で育ったのか、どういう人間なのか、見えていなかった。話せば、話すほど自分がノイローゼになってきた。彼は少し鈍感でもあった。人が変化している時の微妙な変化や顔つきが変わってゆく所も見えなかった。酒を飲んでいる彼は、時間の感覚も分からなくなっていた。僕がかなり前に話していた事もまるでさっき話したばかりのように勘違いをして、コンガラガッタ会話が続く事もあった。後でこの事を人に話しても、酒が入っている時はしょうがないと皆は言った。しかし、彼は毎晩酒を飲んでいた。いくら話しても全ては勘違いにしかならない人とはコミュニケーションとろうとする事自体が間違いだった。
何故自分の言っている事が伝わらないのか?しかも、それを説明しようとしても、相手は自分の事ばっかり考えているとしか言い返せない。しかし、これはそういう問題ではなかった。
何故彼と会うようになっていたかというと、元々は彼が英語を学びたいと言ったからだった。それから僕は作曲や音楽をもうすでにやっている年上の人の人をガイドとして探していた。彼の音楽に感動した訳でもなかった。もしも、僕の父がその役目を担っていたら、外で探す必要もなかったのだろうが、彼は学校というシステムにも反対している上、人にも教える事もできない。彼の真相が見えて来た頃には、何とかその影響がかからないように逃げ出さなければいけなかった。
社会は鏡として自分に跳ね返ってくる。社会がそれまでの自分とは別のものを跳ね返せば、自分がそう見られていると分かって、自分も表面的には変わってしまう。これは一種のマスクが顔にかぶさるような状態だ。本当の自分はその下にまだいる。ただ、目の前の人にも見えていない。
この時、自分を鏡で見てびっくりした事があった。その数年前の自分とは別人が映っていた。鏡に映っている自分は嫌いな人だった。何故自分がこう見えるのかと思った。
マイルス・デーヴィスの自伝で彼は全ての黒人はアメリカの社会での“黒人”というキァラクターを演じていると語っている。社会がそう見ているからそうたいようしないといけなくなる。だから、黒人というマスクを付けている。安部公房の『他人の顔』と同じ事が語られている。
彼の家で知り合った人たちとも全員コミュニケーションが僕にとっては取れない人たちになっていた。『芸術音楽』という雑誌の編集者にも何度か英語を教えるようになった。しかし、ある時、僕がこのような事を話していると言って、彼はいろんな人たちに、僕が言った事と180度反対の事を彼は言い出した。これには僕は驚いた。このような事はニューヨークでは一度も起こった事はなかった。一瞬、もしかすると、これは日本語では『なんとかなんとかではないから』という風に否定系の言葉が最後に来るから、上手く話せないと全てがひっくり返って聴こえているのではないかと思った。しかし、僕がいくらそのような事は言っていないと言っても、いや、たしかに言ったと頑なに主張し続けるのだった。その内、気が付いて見る僕が話す大部分の事は僕が言ったつもりの意味と正反対に誰にでも伝わっていく事に気が付いた。
たしかに僕の日本語は酷かった。一度も日本語の学校に行った事がない上、ちゃんととした話し方を教えてくれる人は一人もいない。父も普段の言葉使いは崩れているし、出会う作曲家などもそうだ。正しい日本語を知った上で崩しているのなら通じるのかもしれないが、ちゃんと習わなければ、言語というのはDNAで自然に伝わる物ではないから、話せない。敬語なども全く知らなかった。日本語で書く事も全く出来なかった。こういった事は習わなければ、出来ない。しかし、父に言っても『何だその話し方は?親に対する話し方になっていない』。という風に怒鳴りだすだけだった。習った事のない言葉は話せないのが当たり前だ。僕は学校に行く必要があると言い続けた。それに対しては学校に行ってもしょうがない。学校ではしょうがない事しか教えない、と答えられてしまう。僕が当時思っていたのは、学校とはただ授業で受けるためだけに行くところではなく、一緒に音楽を出来る仲間探せる場所でもあった。
目の前にいても存在しない人になる
僕にはさらにもう一つ大きな問題があった。実は自分の名前がなかった。僕の両親はてっきり女の子が生まれると思って、鮎という女の子の名前しか考えていなかった。僕が男の子として生まれた時、僕の父はひらがなで自分と同じ名前を書いてしまった。別にJrとも付くわけではない。全く同じ名前のひらがなだ。周りに人たちは後で困った事になるよと忠告していたが、変えなかった。初めは“ゆうじさん”と“ゆうじくん”といった分け方を家ではしていた。ニューヨークに住んでいるのであれば、関係なかった。父はいなかった。しかし、日本の音楽関係のところに行くと突然自分のアイデンティティーがそれまでニューヨークにいた人物と違っている上に、自分の名前さえもないと言う事に気付いた。そして、僕の周りにはそれまでの僕が育っていく間の過程を知っている人もいなければ、写真、書いた文書、なども含めて何もない。過去がない人間になっていた。そして人は勝手にそのないものに対して全く違うイメージを膨らませてしまうのだった。つまり、僕が目の前にいても実際はそこにいなく、存在しない人物に対してみんなが話しているような気持ちだった。新たな人物像を作り上げるようになった。それまでの自分は透明人間になっていた。
この事を父に話して、理解してもらおうとしても、分かってもらえなかった。彼はアメリカに戻っても、アメリカは東洋人をみんなサルとしてしか見ていない。それは昔からそうで、変わらないと言われた。サルに見られるよりは変った人と見られる方がいいだろうと言った。これはおそらくアイルランドとポーランドの血が入った僕のアメリカ人の義母と結婚して離婚した頃に思った事だろう。
この時点では一人もコミューニケーション出来る人が一人もいなかった。日本語自体も何が正しい日本語かも分からなかった。英語の文法はわかっても、日本語は全然分からない。どこに名刺が入って、どこに動詞が入るかと言う基本的な事も分からない。話す言葉は全ては誤解に終わってしまう。その上、相手にそれは誤解だと説明しようとしても分かってもらえない。ある程度、理解出来る人になれば、今、言った事が分からないと聞き返す事が出来るのだろうが、そうしないで勝手に思いこむほど危険な状態を起こす人はいない。顔は他の日本人と同じ。しかし、中身はNY育ちの日系アメリカ人なのだ。
一ヶ月間ほとんど誰とも話さなかった。誰一人と話しても自分の話す言葉が180度反対になって聞こえるのだから、誰とも話してもしょうがない。その内、日本語がさらにメチャクチャになっていった。定食屋に行って頼む時しか口を開かなくなった。一人でひたすら本を読み続けた。コリン・ウイルソン、カート・ヴォネガット、ドストエフスキー。しかし、不思議と誰も僕が徹底的におかしくなっている事に気が付かない。口を開ければ、必ず誤解される。
この時点では殆ど僕という人間そのものが壊れて来ていた。今でこの恐怖感は忘れられない。この恐怖感は自動車事故に遭って時よりも大きい。目の前に人がいても、無人島の真ん中に置かれたような恐怖感だ。最終的には人間も人間のように見えなくなってしまう。
そして、そこの真ん中にはマスクをかぶった僕がいる。人の行動は見えても、自分はそれに対して答えられない。答えても、意味が通じない上に、相手は自分の言っている事を誤解していると分かっているからだ。相手の目の動きや微妙な顔の動きは見える。それに答えたいが、出来ない。地球の言葉を話せない宇宙人になったような感じだった。
日本語を達者に話している人にとっては気付かないかもしれないが、一つ一つをつなぐ言葉が少し間違っても全然違う意味として誤解されてしまう。
はじめの頃は僕は高校の時のように議論付きだった。しかし、相手に伝わらないと気が付くと何故か『へ、へ、へ』とごまかして笑おうとするくせが付いてしまった。これは自分でも嫌だった。しかし、もはやコントロールは完全に失っていた。元々から怠慢だったが部屋の掃除も完全にしなくなった。風呂も入らなくなった。洗濯物もしなかった。同じ物を着たままだった。部屋の中から虫がどんどんわいてきた。しかし、あまりにも汚く、その虫さえもどんどん死んでいった。その内虫の死体が部屋のすみっこにそのままあった。冷蔵庫は腐った食べ物が入れっぱなしになっていた。その冷蔵庫自体も買ったものではなく、道に捨ててあったものを部屋に持って来たもので壊れて腐りだしていた。部屋はゴミ捨て場のように歩く場所もないぐらいのゴミの山になっていた。ただひたすらメチャクチャの部屋の中で復讐する事を考え出した。誰一人と言葉も通じない上に昔から知っている人も昔から知っている環境もない。何をしてもしょうがない。何も通じないのだから。
父親はどうかと言うと全く会っていなかった。彼から連絡してくる事はまずない。僕は彼の行っている政治集会には興味がなかった。それに元々から一緒に住んだ事もほとんどないから一年に2-3回しかどこかで合わなくても不思議に思う事は自分にも彼にもなかった。
こうなった場合、文化とはどういうものという事を事件で持って示さないといけないと思うようになった。大抵の人には家族がある。僕にはなかった。それまで優等生として扱われていた人が日本の社会に出るとよくて変な人、あるいは勉強の出来なさそうな知的障害者になった。何か事件でも起こさなければ、文化とはどんな物か示せない。
ある在日韓国人が『ポクの事パカにしないで』とノイローゼになったように僕に繰り返して言う人がいた。これは昔、日本人が韓国人に対してからかって言っていた言葉らしい。それを僕が日本人だと見て言い始めた。アメリカで僕に両目を人差し指で吊り上げ“チンクだ、チンクが来たぞ”と叫びながら走り回る白人と同じだ。文化的な問題を抱えてノイローゼになって来ている僕のような人に対してこんな事をするとどんな事になるか。何故分からないだろうか?
当時、僕の父が2度目に結婚して5年後に離婚した女の人は、ある在日韓国人と一緒に住んでいた。彼は最初会うと明るい感じの人で、店をずっとやっていた。しかし、話し込むといきなり人間が変わる。日本とアメリカは敵であるという教育をさんざん受けていた。それは彼の深いところにあった。アメリカも日本も粉々になってしまえと怒鳴りだして、止まらなくなる部分も彼は持っていた。僕の義母も学生運動の世代で表面的にはアメリカの政治を批判していた。しかし、誰もそうだが、自分の育った環境を完全に否定する事は出来ない。いくら自分の育った環境に嫌いな部分があっても、そこからその人は来ている。素面の時にアメリカの海外の侵略戦争を止めさせるべきだと言っていても、酒が入った時には、『私たちアメリカ人はお前らをみんな殺ししてしまえばよかった』と言ってしまう。それは自分の存在そのものが否定されたと思ったからだ。このような2人が一緒になるとどうなるか?お互い理解しあって、世の中が平和になれるか?どこかで崩れ落ちてメチャクチャになるか?
まずはその在日韓国人の母や家族と義母は仲が悪くなった。その内、僕に何度も電話がかかるようになった。助けが欲しい感じだった。僕自身もどんどんノイローゼになっている時期だった。しかし、ノイローゼになっている同士が会っても、答えにならないと思っていた。いつも今度会うという風に伸ばしていた。自分の精神状態がある程度よかったら、会うべきだったとも思っている。その内、義母がおかしくなったので彼が義母を精神病院に入れたという噂を聴いた。そして、アメリカのテキサスで義母の父がやっていた農場に送り戻された。長年東洋にいて、アメリカに戻っても、入れる社会もなく、そこでも精神病院に入れられたという噂が次に伝わった。そして、病院からも脱出したらしいという噂も聞いたが、その後どうなったか全く伝わらなくなった。
1960年代では色々な国から来た色々な人たちが出会い、お互いを破壊していった。何故だろう?その答えを知りたかった。
違う文化は違う考え方をする。言語そのものも考え方を反映するから、言語が違う者は違う考え方をしている。アメリカで育った人たちはいくら表面的にアメリカの事を批判していても、自分の育った文化を否定する事は出来ない。自分も否定する事になるからだ。
父はよく何故他の考え方が理解出来ないのだと僕にも義母にも言っていた。しかし、彼自身も彼自身の育った環境以外の考え方が理解出来たのだろうか?何故この時に全く対応出来なかったのか?
人間はお互いを理解出来るはずだ。
しかし、みんな自分のコンプレックスを表面的には隠しながら、それがばれないように固くなって生きている。そして、社会から人種主義や色々な偏見を学ぶ。
僕の行っていた中学校ではユダヤ人、ロシア人、中国人、日本人、黒人、ヒスパニックなどがみんな同じ一つの文化の人として育ってきた。学校の外のアメリカの社会には東洋人と黒人に偏見がある事は充分に感じていたが、自分たちの間ではそうじゃない社会が出来るように、見えていた。しかし、偏見は実は歴史から学んでいるという事が分かった。
よく書かれている事だがアフリカには時々皮膚が白いまま生まれるアルバイノと呼ばれている人たちがいる。黒人社会では皮膚が白いと気持ち悪がられていた。かれらは黒人社会では差別されている。白人たちは差別されてアフリカからおわれたアルバイノたちの子孫ではないかと言う説がある。人類はみんなアフリカから来ていて、みんなの先祖は今のアフリカ人に近かったはずだから。そして差別されたと言う意識が次の差別を生む。そして、人類がヨーロッパやアジアに広がってゆくと共に新た“民族”に別れ、新たな差別がそこから生まれる。差別された者は表面的に否定していても復讐が欲しい。そして暴力は伝統と共に次の世代に伝えられて行く。
その内、僕のノイローゼはあの知っている作曲家がかけた呪いの呪文に違いないと思いだした。彼はきっと悪魔が人間の形になっているだけに違いないと思ってしまった。彼はオカルトや呪文も研究していた。そして、僕に何かのまじないをかけたのではないか思うようになった。そこから逃げるためには僕も魔術の呪文を使わなければいけないと思った。そうでなければ自分がやられてしまうと思った。そこで、英語で書かれていたチベットの研究書から呪いの呪文を唱える儀式を見ながら、ある日、海岸でそれを実現しようとした。後にそこからあまり遠くない所で車に轢かれた。車のタイヤが地面から高い所にある自動車でなかったら、生きていなかったかもしれない。よくまじないで守られている人に呪いをかけようとすると自分に跳ね返ってくると言われている。皮肉にもそれを僕に最初に言ったのは彼だった。彼はもしかすると呪われている恐怖から色々なまじないを覚えていたのだろう。それらが本当働くかどうかと聞かれたらなんとも言えない。ただ気持ち悪いからそれからは魔術には手を出さないようにした。
一年近く彼とは一切会わなかった。あるコンサートで僕の親戚が彼のピアノ曲を弾いた時に来ていた。コンサートの後で彼の曲は年上の作曲家や評論家たちに囲まれて批判されていた。べろべろんに酔っ払った彼が僕のそばにやって来ては『オレはお前の事なんか知らんからね。』と何度も言って来た。僕は『ああ、そう』と答えた。(実はアメリカのテレビの漫画の日本人は出っぱった歯を出しながら、『Ah, so』とよく言う。それは自分のくせにもなっていた。)彼はまわりの作曲家たちに言い訳しながら、合間に僕にやってきたは『オイ、聴こえなかったのか、バカかお前は。オレはもう知らんと言っているのだぞ』と何度も言って来た。しまい、周りの作曲家や評論家たちに止められた。
その内、彼は僕は彼の唯一の弟子だったが、恩も心になく去っていったという嘘を広めた。それは日本だけではなく、アメリカでも言い出していた事が後で分かった。そして皮肉にも彼の音楽を一番演奏するようになったのは彼が敵として見ていたアメリカ人とアメリカの中国人だった。そしてさらに皮肉にヒーリング効果があると言われるようになっていた。
それから十数年立ってからどこかのコンサートで彼に会った。その頃、僕はひょっとして当時ノイローゼ気味になっていたからちゃんと見えてなかったのかなと思うようにしていた。だが、すぐに同じ事が起きした。僕は普通に自分のやっている活動について話した。当時、彼が昔になった学校で僕はもう何年か教えていた。おそらく彼には僕が彼を尊敬してない事が伝わったのだろう。そして、彼のコンプレックスがまた表面化してきた。彼はまず僕の音楽を批判し始めた。僕は『そういう話じゃなくて』と言いだしたところ、彼は『俺は知らん。俺に聞かないでくれ。俺は知らん。』と必死に言い出した。みんな何が起きたのと僕らの方を見出していた。僕の奥さんは帰ろうと僕に言って僕を店から引っ張り出した。後で話を聞いたら、彼は彼が僕の曲を批判し出したら、僕が興奮して反論してきたとみんなに伝えていた事が分かった。彼はまた嘘をついた。もしも、奥さんがいなければ、僕は彼が本当はどんな酷い人なのかをみんなにその場で分かるようにするつもりだった。
彼に会った時代、僕は十代の後半でまだ色々な未来があると思っていた。しかし、その数年後は人生で最も最低な時期になってしまった。そして、自分が物事を習える最後の時期が無駄になってしまった。コリン・ウイルソンの殺人犯の研究ではもしもこの2人が出会わなかったら殺人は起きなかっただろうという人間のタイプとバックグラウンドのコンビネーションがあると書いている。
80年頃に僕は中学生の頃に見た、ある一つの悪夢を思い出した。その夢では僕は一人で上海の街中をウロウロしていた。誰も知らなかった。町は読めない漢字でいっぱいだった。僕は店の窓に何があるのかと覗きながら歩いていた。人とコミューニケーションが出来ない気持ちはこの上なく寂しかった。夢を見た当時上海はまだ文化革命最中だった。しかし、僕がその夢で持っていた気持ちこそが80年代の初め頃、東京で一人で生きている感じだと気が付いた。そうかあれは本当は東京だったんだと思った。
僕は大学に行きたいと言って、この地獄から抜け出したかった。父は最初からやっぱり反対していたが何とか説得して、鎌倉のおばあさんの家に数ヶ月いて、試験を全部受けてから行くつもりだった。試験は全部合格の点数になっていた。高校は卒業まで2年分も行っていない分があったが、高校の一年目の歴史の先生は僕はこの学校で出会った最も優秀な生徒だという推薦文書を大学に書いてくれた。全てがそろった所、父はやっぱり大学に行くお金は出せないと行って来た。彼はよくギリギリになってから、言う事を変えた。
1976年の夏休みの時、オーストラリアでコンサートがあるから家族で一緒に行こうと決めてから途中のフィリピンで考えを変えた。オーストラリア人なんてみんな頭おかしい。地球の反対にいるから変になったのだ、スウエーデン人もみんな頭おかしかった。あそこは寒すぎるからだ。と言ったような突然人種主義的な事を言い出した。
一匹狼というのは危険な存在だ。もし何か事件を起こすとしたら、なるべくたくさんの人を巻き込んで、政治的な意味を持って出来る限り大きな事件にしたいと思うからだ。自分が主張出来なかった文化的な問題もそこに分かる形表現したいと思うからだ。しかし、これが文化的なものとして表現出来るのであれば、その必要もなくなってくる。僕に取っての救いの手は突然1983年にエピック・ソニーからアルバムを出せるという話が来た時だった。もしも、この話がなかったら、何をしていたか分からない。
2001年の9・11の事件を起こした人たちや多くのイスラム教原理主義テロリストたちはヨーロッパの教育を受けている。そしてドイツやイギリスで差別と出会っている。元々の中東の人たちよりもはるかに差別による怒りを抱えている。そういった人たちほど怒りを表わせる宗教団体や政治集団に入りやすい。イギリスでパキスタン人に対する感情を一人のアジア人として自分が見ると分からなくもない。僕自身もそういう精神状態だった。アイデンティティーが要求される社会の中でアイデンティティーが曖昧になっている人ほどテロに走りそうになる人はいない。文化や育つ社会がどのように人に影響を与えるかの研究をもっと正しく追求すれば、こうした事はもっと分かるはずだ。僕の場合は、誰と会っても、自分が育った60年代から70年代のニューヨーク意外は空白だから、何も伝わらない事に気が付いた。同じ顔をしている東洋人にも文化的に理解されていなかった。その苦しさがどんなものかも理解されていなかった。
ヨーロッパの白人の右翼やネオ・ナチの多くは自分には文化も何もない、ただ自分が白人であるという事だけが誇りだと言っているイギリスのスキンヘッズのインタヴィユーを読んだ事がある。イギリスの都会の労働者の若い男たちには酒を飲むパブ、サッカー(イギリスではフットボールと言う)、そしてゴシップとヌードを載せたスポーツ新聞が楽しみで文化が普段自分たちの回りにない。アイデンティティーが曖昧な人ほどアイデンティティーを欲しがる。そして愛国主義や民族主義という幻想を求める。
イギリスのスキンヘッズはパキスタン人住む地域に行って、店を壊したり、女性を暴行したり、殴ったり、けったりする。時々、人が死ぬ。皮肉にもイギリスで育ったパキスタン人とインド人はもはや元の国の人たちとは違う。パキスタン人が自分を守ろうとして、イギリス人を殺してしまった場合は刑罰がもっと多くなる。そしてそれに対するプロテスト運動が始まる。90年代の後半にクラブ・ミュージックとして流行ったAsian Dub Foundationというバンドはイギリスで育ったアジア系の人たち(殆どパキスタン人とインド人)を守りながら文化を育ててゆくワークショップから始まった。“Free Sapal Ram”というヒット曲は自分が暴行に会った時イギリス人を殺してしまって捕まり、死刑宣言をされた人を刑務所から解放しろと歌った歌だ。
彼らはUK Asianというアイデンティティーを自分たちに広めようとしている。イギリスで育ったアジア系の人たちはもはや元の国の人たちとは別の文化を持っている。
しかし、不思議とギターの弦を奏でると同じ音程を持っている弦が響き合うのと同じように、暴力は暴力を呼び合う事もある。
数年前に北朝鮮の事を知る会を手伝っている人と出会った。彼らはみんな日本人だった。よど号事件といった飛行機のハイジャック事件を起こして、北朝鮮にそのまま住んでいる人たちも支援していた。中にはそれまでオーム真理教に入っていて、麻原彰晃が捕まってからどこに行ったら良いか分からなくなって、入った人もいた。仕事をリストラされたばかりの人も何人かいた。何かの事件を起こして世の中を変えたかった。オーム真理教がロシアから原爆を買えなかった事にがっかりしていた人もいた。彼らはよど号事件を起こして人たちは、本当は武器を持って、北朝鮮の軍隊と共に軍事的に日本を乗っ取る計画を作っていたと言う話しを聞いて、感動して仲間になりたいと言ってやって来た人たちだった。彼らの何人かの親戚は第2次大戦争中に多くの人たちをアジアで殺してきた人たちだった。彼らは北朝鮮が民族主義であると同じように、右翼と組んで日本も民族主義的な国に戻すべきだと言っていた。
本当は彼らにとっては右翼も左翼もなかった。北朝鮮の政治的な映画で大勢の“民衆“が立ち上がって町中のビルをぶち壊し、次々と韓国側アメリカ側の警官や兵隊を殺している場面をヨダレをたらしながら見ていた。特に暴力的な場面になると目玉が飛び出すように興奮していた。彼らは武器を持って今の日本をぶち壊したいと言っていた。
暴力は暴力を呼ぶ。
彼らは今の北朝鮮を見て戦前の大日本帝国を懐かしんでいるように思えた。そして、第2次大戦争中には多くの人たちをアジアで殺してきたと同じような事の続きをやるとしたら、北朝鮮が手伝ってくれるだろうと思っていたように見えた。
彼らは民族主義を広めるコンサートを作ると言って勘違いをして、僕とある日本に住むアフリカ人のダンスバンドを呼んでしまった。それは“民族音楽”をやっているバンドだと思われたから呼ばれたのだった。“民族音楽”の“民族”という言葉だけに反応をしていた。
アメリカにいた頃の僕は世界地図がどうなっているかあまり分からなかったから、小学生の頃、朝鮮戦争の話を聴くと南米のどこかの国だと思っていた。それが突然、“お前達の先祖が我々を侵略してたくさんの苦しみを与えたから謝罪せよ”と言われてしまう。これが日本帝国主義とアジアの複雑な歴史が分かっている人だったら、その意味が分かるのかもしれない。しかし、日本の事も朝鮮の事もあまり分からない人にとっては、これは新たな差別にすぎない。そして、“日本人“もからも”彼はエイリアン“だとか”宇宙人“と僕は呼ばれるようになっていた。
1986年になって、『Nova Carmina』という僕のアルバムが発売した時もあるライターはこう書いた:最初聴いた時、日本人のくせにヨーロピアンをやっているのだろうと思っていやになった。どうせ良い家庭のおぼっちゃんだろう。そして、海外で育ったとプロフィールを読んでますます嫌になった。しかし、聴いているほど実はこの人は自分が日系人だという主張をしているのではないかと思うようになった。そして、これは日本人の音ではなく、日系人の音楽だと思った。
他にある日本にすんでいるあるフランス人のディスク・ジョキーがこのアルバムを聴いてこう言った:彼の音楽には難しい面がある。これは日本人の音楽でもなければ、アメリカ人のでもドイツ人とも違う。どこにも入れない音楽だ。
無国籍と言われるのとどこの国や民族にも入れない音楽と言われるのは全く違う事だ。
僕自身は無国籍な音楽を目指した事はない。ただひたすら自分の表現のそのまま自然にやりたかった。そして自然に生きていると自分の文化とは自分の育った社会環境から来たものだ。これが何故そんなに分かりにくいものでみんなが誤解してしまうものかが分からなかった。
民族主義的な考え方が何にまず役に立つかというと武器を持った戦争だけではなく、自分たちで頑張って乗っ取ってしまえと言う挑戦の意識だ。敵という意識はまず民族という意識から始まる。なぜならば、民族という意識はかならず自分たちはお前と違う、自分たちは特別だという意識からくるからだ。ユダヤ人のバイブル、旧約聖書を見ると、“ユダヤ人の神はお前たちにイスラエルと言う土地を与えた“とエホバが言う。そこに今住んでいる男を皆殺しにして、子供を生める処女をみんなさらってユダヤ人の子を生ませて人口を増やせと続けてエホバは言う。これこそが民族主義の本質だ。
僕がワールド・ミュージックの音楽と呼ばれる物を作るようになったのはこのような事があったからだ。文化や社会がどう人間を影響するかを自分で研究しながらそれに基づいた結果を表現したかった。それは自分に対しても必要だった上、他の人にとっても学べる物を表現出来るのではと思っていた。ある意味では表現者でありながら、研究者であるのと同じように。
古代の宗教儀式やお祭りの音楽はそういった目的で作られたものだと僕は思っている。ヨーロッパの中世以後ではミサ曲がそういった役割を担っていた。バッハの曲作りはそういう信念の上で作られている。20世紀の初期の音楽作品 -例えばウエーベルンにもメシアンにもキリスト教の考えが音楽作りを影響している。しかし、世界の色々な宗教を研究して来たジョーセフ・キャンベルは20世紀後半にはその役割を持てる神話や宗教が社会からなくなったと言っている。一番古代の宗教儀式やお祭りに近いのはロック・グループ、グレートフル・デッドのコンサートだと言う風にも彼は言っていた。
自分の生きている今の時代の、自分にとっての宗教音楽とはなんだろう?
答えは自分の中からしかこないと思っている。
僕はどこかの宗教に入っている訳ではない。それから古代にとっての宗教とは現代の科学だと思う。古代の人たちは“神”という言葉をたとえ話として使っていた。本当は世界や宇宙の事を説明したかった。
新しい科学の発見によって、古代の社会で神話の役目を持っていた物が新しく生まれるだろう。そしてそれは新たに文学、音楽や美術として表現されるだろう。