現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「イラン人の義父、日本人の母と3人の家族生活1970年−1975年 - Ⅰ」


この出会いの前は他のニューヨークのヴィレッジに住む家庭とあまりちがわないような生活をしていた。イラン人の義父はイランでは宮廷音楽をやっている家族から来ていて、イランの伝統音楽にくわしかったが、彼自身はその道を選ばなかった。毎朝シャワーで伝統曲を歌ったり時々パーティーで歌っている位だった。彼はBanker's Trustという普通のアメリカの銀行に勤めた。平日月曜日から金曜日の9時〜5時まで働きに出かけた。小学三年生から中学三年生の間、毎朝一緒に出かけて、僕は学校に、彼は会社に行った。母は夜遅くに本を読み、学校から帰るまで寝ている事が多かった。週末になると義父も母も朝は遅かったが、たいてい義父が朝ごはんを用意した。週末の朝ごはんはマフィンに卵とベーコンが多かった。天気がいい日にはセントラル・パークに行って自転車をレンタルして、公園をまわる事も多かった。あるいはプールに泳ぎに行った。義父の最初の奥さんとの息子が泊まりにくる事もよくあった。

中学位になると夜は近くの映画館でロック・コンサートに行く事が多かった。ホークウィンド、10cc、ネクター、ジェネシス、キャラバン、ハンブル・パイ、ジェントル・ジャイアント等いろんなバンドがやっていた。たいてい、一晩には3バンドが出るのが普通だった。

例えば、ある晩、最初は当時一番売れていなかった10cc、次はもう少し知られていたザ・ストローブス、そして最後にメイン・アクトのギタリスト、ローリー・ギャラガー。2つのバンドが一緒にツアーしている事もあった。ホークウィンドの前にはマンというウエールズのバンドがやっていた。義父はレッド・ツェッペリンのように思いっきり表現してくれるバンドの方が好きだった。考えてみると、イランの伝統音楽もパキスタンのスーフィー教の音楽もそのような歌手の方が好まれる。ヨーロッパや日本で90年代でも流行ったヌスラットを思いだすとその感じが分かると思う。

母には日本の芸術家たちの友達たちが多かった。その人たちがニューヨークにくると彼らのためにご飯をつくったり、パーティーを用意したりしていた。そして一緒にロック・コンサートに行く事も多かった。