現在執筆中のAyuoの自伝的小説からの抜粋コーナー



 

「『Nova Carmina』の仕上げ」


『Nova Carmina』の仕上げ

アルバムのタイトルはミックス前の段階で『Nova Carmina』に決めた。
ミックスも早かった。バンドの曲はもはやデイヴ・マッタクスは自分の音をミックスしていった上、エフェクトも全てつけて録音したから後は最終的なまとめをするのに過ぎなかった。デイヴ・マッタクスとバンド編成で演奏した曲も2時間でミックス・ダウン出来た。2日半で全てが仕上がった。僕はミックスが仕上がると、それをカセットにおとしてもらって、それをウォークマンで聴きながらバースの町を歩いた。

僕が終わった次の日はXTCのアンディー・パートリッジが12インチ・シングルのためのミックスに来ていた。トッド・ラングレンというアメリカの有名なミュージシアン・プロデューサーにはXTCのアルバムをプロデュースしてもらったが、途中で意見が合わなくなっていた。そこでシングルの裏にはアンディーが自宅で録音していたオリジナルのデモ・テープをミックスして出したかった。これらをミックスしに来ていた。オリジナルは4トラックのカセット・テープだった。

バースから戻ってから帰りのニューヨークの飛行機まで一週間くらいあった。
元ハンブル・パイやスモール・フェースのスティーヴ・マリオットのライヴを見に行った。ロンドンの北の方にあった小さいパブでやっていた。彼はこの頃になると一年中ライブをパブでやっていた。スティーヴ・マリオット・アンド・ザ・パック・オヴ・スリーというバンドでやっていた。会場は普通のロンドン・パブにステージとPAシステムがあるところだった。スティーヴ・マリオットはスモール・フェースやハンブル・パイのヒット曲や昔なじみ曲を次々とやっていた。相変わらずパワフルなブルース・ヴォーカルだった。その力は決して衰えていなかった。お客さんはローカルに住んでいる人たちが多かった。酔っ払った中年の太ったイギリス人のおばさんがインドかパキスタンの人と笑いながら踊っていた。飲みながら昔の曲を楽しむ雰囲気になっていた。僕も楽しんでいた。しかし、心の中では昔マデソン・スクエア・ガーデンで20,000人のキャパの前でやっていた時代が思い浮かんだ。20代の後半、あそこまで行って、あれから12年くらいしかたっていないのにもうオルディーズのエンターテインナーとして扱われるようになったのか。音楽は相変わらずいいのに。それが悲しかった。

ロンドンは後、芝居を見るのが最高にいい。ロンドンで芝居をやるにはかなりの競争率があるらしいが、その分、ここまでクウォリティーが高いのは中々見れない。シェークスピアやルネッサンス時代の芝居、そしてチェーホフの『3人姉妹』を見に行った。

ニューヨークでマーチンが一人で迎えにきてくれた。そしてマーチンと何日間か二人で一緒に過ごした。粟津ケンに連絡した。彼と晩ご飯を食べている時、彼のお父さんの粟津潔のデザインや映画用に彼が制作したタイトル・カットは今でももっとも好きなアートの一つで、粟津潔に頼んだらやってくれそうな可能性はあるかなと彼に聞いて見た。『大丈夫じゃない』と彼は言ってくれていた。そして『Nova Carmina』のジャケット・デザインは粟津潔に頼む事に成功した。

9月の終わりに日本に帰った。

BAth 1986

Ayuo in England 1986